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全てを相対化する社会

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 7月 9日(日)14時58分44秒
   在日韓国人の作家の呉善花女史は、『日本人を冒険する』の中で、日本人の国民性に関して「全てを相対化する」ことを指摘しておりますが、これは換言すれば、何事も絶対的なものには極力嫌悪し排除して平均・平準化するもので、出る杭を打つとか、集団主義や横並び志向にも通じるものであろうと思います。

 自ら主張もしないし相手にもさせない国民性は、様々な見解や主張に対しても、その適否や賛否を判断をすることなく、見事に相対化していく国民性が蔓延しているようです。例えば、何か意見を言えば、「それは貴方の見解でしょう」とか、「そういう言い方もあるのですね」「貴方の考えを聞いているのではない」と言って、それに対する自分自身の見解を表明することもなく、それで終わりにしてしまうことが多いようです。

 これでは、自分自身が議論の中に入り込まないで、あくまで傍観者的に振る舞って、相手の意見も頭から無視していくことにさえなりかねないものです。これでは議論にもならずに、日本人自身の議論下手の国民性にも通じることであろうと思います。

 日本人の会話では、よく「必ずしもそうではない」と些細な例外を挙げて、相手の意見を根本から否定することがあります。誰しも百%の確率で見解を主張しているものではなく、概してとか、一般的に言ってとか、原則としてとかを付け加えなくても省略して、大体の感覚で言っているもので、少なくとも例外があるのが常識と言えるでしょう。

 しかし、日本人の場合には、原則と例外の区別がつかずに、僅かな例外を大きく指摘して、結果的には、原則を全面的に否定したり、原則と例外とを交換したりして、曖昧にしてしまう傾向が強いように思います。普段の思考や行動でも、一体、何が原則であり、例他なのかを厳しく峻別することも出来ずに、全ては曖昧に終始してしまうように思います。これは一見すると、バランスを取った中庸の感覚のように見えますが、見方を変えると、相手の意見を適当に料理し評価するものですが、背後には自己自身の意見と言うものがないということでしょう。

 先ほどのような「それは貴方の考えでしかない」とか言ったり、また「貴方ばっかり話すな」と言う割には、自己の独自の主張、独自の見解もなく、相手の意見に対しても傍観者的な無関心になっていくことが多いように思います。

 また、この日本人の相対的な感覚は、西洋やイスラムのような一神教的な絶対的な神を認めることを極力嫌悪する国民性でもあり、八百万の神をバランスよく何でも平等に信じる多神教に向き、外部から伝来してきた宗教にも簡単に伝染し受容していくような寛大性や柔軟性を有しているものです。

 そして現在では、国内で巨大宗教が氾濫し興隆しているというものの、国民の大多数の意識としては無宗教であり無信仰であり、信じる宗教の実態は、実に現世御利益宗教に他ならないというのも、日本人の絶対的なものを嫌悪する国民性に通じているものと思います。

 この国民性は、本能的に独裁を嫌悪し排除する面では、国家社会の運営には効果的な面もあろうと思いますが、ある意味では、絶対的な真理に対しても、排除していく傾向が強いと言え、真の解決策や指導者や、崇高な理念や思想に対しても、ある程度距離を置いて傍観者的にみる傾向をもたらし、無感動や無関心、無気力にさえ至る側面を有しているものと思います。

 また、この相対化は、曖昧情緒性や近視眼的性向とも相俟って、明確な判断思考を妨げていくために、時には、崇高と低俗、高尚と高慢、真剣と独善、信念と頑固、本気と邪気、善意と偽善、繁栄と虚栄などの区別も付かず、指導と命令、協力と服従、批判と中傷の差異にも思いが至らずに、迷走していくことが多いように思います。
 


↓.駄目だと思う日本語をどうするんだ

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 7月 3日(月)23時05分18秒
   一見、神妙・謙虚になって、まともな学識のある見解を述べているように見えるが、それでどうしたと言うのか。自分の知識を披露して、対抗意識を燃やしているだけではないのか。英語を始め、どんな言語も欠陥があるなどと一般論を言っても仕方ないものだろう。それも、当方が提起する国民性との関係においては、全く考えてもいないであろうし、考えられもしないであろう。日本語の欠陥が解ったら、肝心の日本語を、将来において、また世界に向けて、どうするかであろう。

 今日的に言語に要求される世界性、迅速性、明瞭性の観点から、英語との優位比較などを論じないで、一刀両断の下に切り捨てている有り様だ。何故に、世界中が、また日本でも小学校から英語教育などで、真剣に検討課題に上っている現実を注視しないのか。どんな言語にも欠陥があり、英語にも欠陥があるなどは、当たり前の話しだ。問題は、現在の日本語の欠陥を国民性との相関において、どうするかが検討課題であり問題提起なのだ。

 当方が指摘していることは、日本語の特徴に、腹切りと切腹にも見られるように、和語平仮名と漢字漢語、音読みと訓読みの二重性であり、それが日本人の思考性に、単なる便利性、多様性を大きく超えて、二重分裂性を生じる原因ともなっており、更には、貴殿のように、建前と本音、口と心、書き言葉と話し言葉、また女言葉と男言葉などの二重性、乖離現象をもたらしており、これらが国民性に濃厚に反映されており、かつては長所でもあった言語や国民性の面が、今や、環境の激変とともに、欠陥に変質してきた因果関係を指摘しているものだ。

 英語は、むしろ中国語の漢語漢字と、文法・構文上も酷似しているとも言える。目下、曖昧で混乱する日本語の現状や欠陥を知って改定するべく、漢字を中心にした言語復活とか、英語の言語鎖国化を図れと言ってみたり、漢字の煩わしさを回避するべく、ローマ字表記にせよとかの見解も横行している有り様だ。しかし、当方は、中国の漢字と異なって、日本の漢字では、むしろ漢字無くして日本語は成立しないと言う構造的欠陥を指摘し、思い切って言語構造にまで及んだ改革の必要性を指摘しているものだ。

 それも一朝一夕に達成できるものでもなく、数十年先の後世に託す意味で問題提起を成しているものだ。日本が、二,三流国家に甘んじるならば、現状の曖昧な迷走混乱でも何ら問題もないが、いやしくも、世界第二位の経済大国にも匹敵するほど、世界の指導国家になろうとする気概があるのならば、言語と国民性の変革は避けて通れないことを提起しているものだ。

 もっとも、何を世界に訴えて、世界の指導国家になるのかの崇高な目的や意義、理念を理解できなければ、貴殿のような俗物根性に囚われている限り、単なる現状分析で終わってしまい、右往左往して、改革への展望、健全な将来像も見えてこないであろう。
 

確かに日本語は駄目だと思うが

 投稿者:鞍馬天狗  投稿日:2006年 7月 1日(土)09時17分30秒
  実は英語だって漢字熟語のように分解できるのだ。
そして複数の意味を持つ。
例えば、haveとかtakeとかがそうだ。
なんてことはない。
どの言語もそんなものだ。
日本語の欠陥はあなたが指摘するように音節数の少なさというのが一つある。
あと、漢字熟語を取り入れたときに、中国語の文法を無意識に取り入れてしまったことがある。
どういうことかというと動詞と目的語の順番がひっくり返るということだ。
切腹→切る・腹
これは日本語だが中国語の文法に基づいている
日本語の文法に基づくならば、「腹を切る」、すなわち「腹切」が正しい。
もうひとつ、これもあなたが指摘したことだが、漢字一文字に二音節を当てている。
 

漢字の将来性には暗雲が・・・

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月25日(日)11時13分39秒
編集済
  ●『国民性変革のために「思い切って日本語を捨てる日」−日本人の国民性では駄目だ!』(300頁 2100円 新風舎 二〇〇六年四月発刊)
仏身顛化の聖心先生のご指摘だった!
国民性変革への解決策は、宙天よりの広大無辺の仏智恵による真理であろう!
 今や深刻化する国家社会の衰退破綻・堕落崩壊の原因が、日本語の乱れや欠陥にあるように推察する。平仮名の大和言葉による本来の正しい日本語は、自然のリズムや宇宙の響きと調和して左脳を活性化し、情緒的で穏和な語感を有した素晴らしい言語だが、一語彙に複数の意味を有し曖昧模糊の面があるのも確かだ。
 現在の日本語は朝鮮古語や漢語や英語などの外来語を取り入れて複雑高度に進化してきた。本来の日本語に内在する特徴として、主語や意味・意志の不明瞭性等が指摘されるが、これが白黒、善悪、優劣、諾否等を曖昧にし、非難や対立を排して穏和を尊ぶ国民性を形成してきた。しかし他方で曖昧模糊の情緒的で穏和な響きの日本語が、迅速性や主体性、正確性の欠如から意志・主張・批判・評価・結論を回避した優柔不断性、内向き思考、そして複雑な敬語を形成して形式重視の国民性を形成してきた。
 今やグローバル化と共に、日本語の欠陥面が国民性にも悪影響を及ぼして、無責任、問題解決先送りの体質に蝕み、国家社会を迷走溶解させる元凶になった。世界への日本文化の正しい発信や、諸改革の根幹である国民性の変革に向けて、今や日本語を根本的に見直して大胆な改訂が必須だ。

http://www.pub.co.jp/pdf0401/4-7974-7983-3/060411.jpg

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797479833/qid=1144944252/sr=1-2/ref=sr_1_8_2/250-0591571-8755422


 この、『国民性変革のために「思い切って日本語を捨てる日」』とは、あくまでも、国民性の変革からの要請であり、世界的指導国家への飛翔からです。

1.あくまでも、世界の指導国家になって、日本から世界的、歴史的改革の気運を発信していくための、歴史的責務から来たものです。そのための、世界性、迅速性、明瞭性の英語をツールとして利用していくことを提示しているものです。現に、既に、日本語は大きく崩壊し混乱しつつあります。

2.日本語の欠点は、曖昧情緒的で、同じ事項に対して、色んな言い回しが多く、相手や環境により、使い分け方に、多様性や気配りや便利性を通り越して、複雑怪奇になり果てて、大混乱に陥っていると言うことです。

3.インターネット化でも、同音異義語の氾濫で大混乱しているのが現実です。ローマ字入力から、漢字変換で、適切な語句の選択に至るまで、実に、英語の3倍もの時間を要しているのが現実です。台湾人の黄文雄氏も、漢字は次第に消えていく運命の言語だとしており、漢字は、視覚的には便利だが、何と、創造力を無くし、思考停止に陥って、支配階級の支配しやすい言語であるとまで極論しております。

4.目下、小泉政権の単純で解りやすさが強調されておりますが、これぞ、余り深く考えない、考えられない、付和雷同で思考停止の単純、短絡、単細胞的な国民性に合致したものと言えるでしょう。私もこの著作を通じて、殆ど国民全体を敵に回して、これまでの多くの人間関係に終止符を打つように、大多数の者が去っていきました。大変寂しい結果になりましたが、歴史的研究論文を形に残せたことが大満足です。

 なお、私自身は大して英語は駄目ですが、出版社の企画担当の方が、評価してくださったように、「真剣に、国家の将来を考えている真剣さが伝わってきますし、説得力を感じます」というコメントが印象的でした。
 

漢字の効用と限界

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月17日(土)23時12分20秒
   漢字の素晴らしさは、何と言っても豊富な意味を有していることでしょう。これが実に思索的、哲学的、論理的思考に役立っているものでしょう。曖昧模糊の平仮名ではとても生み出せないものでしょう。恐らく、中国から漢字が伝来流入して、それに接した際の日本人の感想は、驚異と尊敬と羨望であったものと思われます。然るにあまりにも、複雑難解であったのも確かでしょうし、それまでの神代以来の大和言葉に取って代わるだけの支配性も習得力もなかったものでしょう。それは島国という地政学的な環境が幸運にも不運にも作用して、音訓併用などの折衷的なものを生み出す余裕があったと思います。

 かつて中国周辺諸国は漢字を拒絶したり、部分的に取り入れたり、或いは席捲支配されていった経緯がありました。大陸内部のチベットやモンゴル、満州などでは、漢字文化圧力に抵抗出来ずに支配され、辛うじて、朝鮮やベトナム、日本などの、周辺の半島や辺境地帯、島国などの地域で、漢字の侵略を食い止めてこれたようです。即ち、現在、ベトナムでは漢字は使用されていず、韓国でもハングル文字であり、日本では漢字の音読みのみを受け入れてきており、独自の大和言葉を必死になって守ってきたと言えるでしょう。

 ところで韓国では、日本統治時代の残滓を払拭廃棄していったがために、漢字を全て捨て去ってハングル文字一辺倒にしてしまい、そこで再度、漢字の持つ長所を見直して漢字復活をと推奨する方もあるようですが、漢字復活の動きは、中国や日本の影響かも知れません。韓国人の某有識者によれば、日本人が編み出した漢字の訓読みは素晴らしく、韓国も、日本語に倣って漢字の音読み以外に訓読みも併用すべきだと主張しているようです。即ち、漢字の素晴らしさと、日本人が使っている漢字の音訓併用の優れた文化を絶賛しているものです。しかし、漢字の複雑な欠陥性に反対する声も強いようです。

 この漢字文化の持つ長所、即ち、表記するだけで意味が即座に伝達出来、また簡潔明瞭に表現出来ることは、何よりも優れた点であるのは否めない事実でしょう。また漢字の音訓併用の日本独自の文化の素晴らしさも全く否定しません。中国語では漢字一色であり、それも音読みばかりで柔軟性に欠けているのが欠点でしょう。その意味では、現在の日本語は、本来の平仮名、漢字や漢語の中国語を音訓取り混ぜて併用し、更には西洋外来語をカタカタで取り込んでいくような柔軟性を有した言語であるのも確かでしょう。

 なお、中国の古い漢語辞典である『説文解字』によれば、実に多様で多彩な漢字が列挙されております。例えば、馬にしても、馬の年令、毛色、大きさ、そして馬車の作り方などで、実に様々な馬に関する漢字、漢語があります。また山でも、高くそびえる山、向こうにまで延々と連なる山、険しい山、孤立した山、なだらかな山、木が多い山、こんもりとした山など、実に山を現す様々な豊かな漢字があるようです。それに漢字は様々な漢字を前後に追加補足して、新たな造語を生み出していく利便性、発展性や深遠性もあります。

 因みに、最も字画数が多い漢字は、龍が四個、田字型に集まった漢字であり、全部で何と龍の字画数が十六で、それに掛ける四個で六十四字画数もあるようで、読みは「テツ、テチ」、意味は「言葉が多い、多言」という漢字です。こんな豊富で多種多様で多彩な漢字は、確かに豊かな表現力、描写力があっても、残念ながら、現実の日常会話の世界では全く使われないもので、ある意味では複雑極まって、会話にはいろんな問題も出てきているようです。即ち、書き言葉としては豊かな表現ではあっても、あまりにも多彩過ぎて、日常的には複雑怪奇になって容易に使いこなせないものでしょう。

 こうした点を充分に考慮した上で、今や漢字文化の長所が欠点と化し、むしろ今まで隠蔽されてきた欠陥面が大きく浮上し、もはや修復出来ないものと思います。即ち、平仮名、片仮名、漢字などの多様で多彩な日本語の長所が、また、特に漢字の有する複雑高度で深遠な意味の長所が、十分に使いこなせずに、日本語の乱れ、崩壊、溶解に至り、日本人の感性や霊性の乱れと共に、国民性にも影響を及ぼし、国家破綻に導く重大な局面に至っていると思います。それが、何が正しいのかの評価や理解や判断も出来ない曖昧模糊性、指導者すら選別出来ない混乱状態、無責任、問題解決能力の欠如などに顕著に表れているもので、残念ながら、この因果関係に気付いている方は極めて少ないように思います。

 ところで、中国自身が、余りにもの漢字の複雑さを嫌って、どんどん漢字を簡略化して簡体文字が氾濫しており、最終的には、中国語から漢字を廃止して、発音記号に似た「ピンイン」に統一するのではないかとさえ思います。事実、中国語の習得には、漢字習得よりも、アルファベットで表現されるピンイン習得による英語から入った方が良いとか言われるぐらいです。それに中国では、英語の必要性を痛感したり、迅速的で積極的な英語の魅力に取り憑かれたかの如く、目下、急激な英語熱が広範に沸騰してきている有り様です。

 今やインターネット化とグローバル化の歴史的大変動の中で、日本語も大いに混乱していく傾向を示しており、将来に向けて暗い影を投げかけております。特に漢字の世界でも、その欠点が如実に表れております。即ち、インターネットの利用に際しては、日本語の入力はローマ字表記により行っているがために、既に日本語のローマ字化に拍車を掛けているものであります。また日本語の入力に際しては、日本語の発音通りにローマ字で入力することにより、大変早くて便利でありますが、その後、実に豊富な漢字や漢語の同音異義語、類義語により、適切な語彙を発見し選択する漢字変換作業に、多大な面倒を伴って結果的には迅速性に欠けるものです。日本語入力においては、実に入力から変換を経て、眼で確認する選択と、三段階にも及ぶ作業を要求されているものです。例えば、シコウでも「思考、志向、試行、指向、嗜好」、ドウシでも「同士、同志、同氏、動詞、導師、同視」、シゴも「死語、私語、詩語、死後、死期」、ゲンメイも「言明、厳命、元明」などと延々と続きます。よく「貴社の記者が汽車で帰社する」(キシャノキシャガキシャデキシャスル)などが例に引き出されますが、発音だけでは全く解りません。因みに、英語にも、同音異義語に近いものがありますが、日本語の漢字ほどではないようです。

 日本語特有の同音異義語、類義語は、日本語特有の駄洒落文化にもなっているものですが、この同音異義語、類義語の豊富さは、中国から漢字を導入した際に、豊富な発音の細かな差異まではそのまま導入することがなかったために、日本独自の単純な発音に一緒にしてしまったために、今日のような同音異義語の大氾濫が生じたものでしょう。漢字の読みでも、呉音・漢音・宋音(唐音)の順に変化して伝来した結果、「行」にしても、「行列」(ギャウ)=呉音、「実行」(カウ)=漢音、「行脚」(アン)=宋音、「行灯」=唐音などと、今でも独自の読み方に片鱗が残っておりますが、概して日本は、漢字の読み方に厳密な区別をつけないで受け入れてきたものです。そこで、漢字や漢語を発音しただけでは分からずに、書いてみて初めて相違が明確になることが多いようです。それでも、書き言葉ならともかく、会話の世界では全く同じ発音であるがために、互いの意志疎通にも支障を来し、思考にも大混乱が生じてくるものであり、至ってはこれが災いして、益々、話すことが抑制され、漢字の表現豊かな特性と相俟って、大和言葉の言霊も喪失させながら、言語を書き言葉中心に加速させてきたように思います。これではいくら会話能力の育成や重視などと言っても、限界があるのではないでしょうか。

 なお、日本語には音節が極めて少ないがために、音声から文字への変換の技術が完成すれば、世界に先駆けて最初に実現できるのは日本語であろうとし、インターネット社会での日本語の明るい将来を展望する方もおります。しかしながら、現在のインターネット社会での使用言語は八割が英語であり、先ほどのように、日本語は入力しやすいとはいうものの、その後の漢字変換は同音異義語の氾濫で大変難儀であるのは否めません。そのままローマ字表記で済ませば良いに超したことはありません。中にはこうした現状を踏まえて、いっそのこと、漢字を無くしてローマ字にし、同音異義語を無くすべく、漢語を全て平仮名大和言葉に変換せよとし、中国漢字文明と心中するのを止めろと言う方もおります。しかし、漢字を無くせば確かに入力後の変換もなく、便利になりますが、これでは平仮名ばかりの文体と同じであり、やたらと冗長になって、時には意味が全く解らなくなる場合も起こります。恐らく、その折りには同音異義語の漢語を、全て意味が明瞭となるように、長い説明を付けた平仮名大和言葉に変換させ、例えば、置換→おきかえ、弛緩→たるみとゆるみ、苦痛→くるしみ、上昇→うえにのぼる、漸進→ゆっくりとすすむ、などと、訓読みに集約していくものでしょうが、これでは簡単明瞭な漢語の効果を廃止しながら、益々、情緒的ながらも意味不明瞭の曖昧な平仮名文化に、時代を逆行させるものでしょう。
 

漢字の将来は

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月17日(土)23時09分5秒
   漢字と漢字文化の関係を略論する      陳 章大
                          蝦名良亮 訳

 漢字は漢文化の範疇に属し、漢文化と密接不可分な関係を持っている。漢字は重要な特性をもっており、儒学を核心とする漢文化を記録にとどめ、伝播し、広く発揚してきたという打ち消しえない功績がある。一方、漢字には限界性もあるので、改革と規範化によって社会発展の需要に適応させ、より一層の現実的な役割を発揮させる必要がある。漢字と漢文化は、他の民族や国家に借用・吸収されて以来、次第に民族や国家を越えた漢字文化を形成していった。漢字文化はインド文字文化・アラビア文字文化・スラブ文字文化およびローマ字文化等とともに世界に併存し、世界文化の重要な構成要素となっている。事物の不断の変化と社会の不断の進歩にしたがって、漢字も次第に変化し、漢字文化も多様な発展を見せている。現在、学界では漢字および漢字文化に対してますます重視する姿勢を強めており、この問題を研究する人口も増加の一途をたどっている。これは、そう遠くない将来に漢字文化という新たな学問が必ずや創出されることを信ぜしめる好ましい現象である。本稿は漢字の主要な特性と限界性および漢字文化の伝播と発展等の問題に関する個人的見解を披瀝し、同学諸兄のご教示を請わんとするものである。

一、漢字の形意性と漢文化の多様な発展
 文字学界の一般的な推測によると、漢字はおおよそ紀元前三〇〇〇年以前の新石器時代に生まれ、今を隔たること五〇〇〇年以上の歴史を有する。漢字は図画に起源し、最初の文字形式は象形であった。甲骨文、金文は比較的成熟した象形文字の代表である。ややしばらくして生まれた指事文字、会意文字のいずれも元来は図形によって意味を表現、伝播するものであった。秦漢から魏晋にいたると、漢字の字体に比較的大きな変化が生じ、書体の形式が線状から筆画へと改まって隷書、稽書や行書が相次いで出現した。こうした字体は象形という漢字の意趣を打ち消すものではあるが、やはり依然として図形を基礎とする「意化」システムから脱却するものではなかった。それは主として、形で意味を表すということは、意味と字形が直接に結びつくということでもあり、語音を通過しないためである。漢字の「音化」の傾向はずっと「意化」システムに抑制されて、表音システムにまで発展しなかった。こうして、「形意性」が漢字の重要な特性であり、また漢字の本質的な特性であることがわかろう。
 こうした基本的特性は、形差度−大、情報度−大、能産度−大、分析性−強、安定性−強、適応性−強、といった特徴を漢字に与えた。そのため、漢民族の伝統的思惟方式や中国語の特徴やさらに中国社会の必要にも、うまく適合したのである。
 中国という特定の歴史的条件を社会文化背景の下で、漢人は次第に、効果・直観・類比・平衡・意象を重んじる思惟方式を形成していった。こうした思惟方式は、直観思惟と形象思惟に属することが比較的多く、明らかに全体性・調和性・統一性・収斂性および閉鎖性という一元論的特徴を表している。漢字の造字は形と意味の連携を非常に重んじ、個性が鮮明であり、構成の釣り合いがとれているため、直観的理解と連想記憶に都合がよい。こうしたことが漢民族の伝統的思惟方式や漢民族の心理的特性に適応したので、漢民族は喜んで漢字を受入れ使用したものである。
 中国語は分析型の単音節言語の一種であり、意味を分別する声調をもち、音節が閉鎖的で語順が固定的であり、多様で複雑な語藁や語義システムを相当数有する反面、語形変化がなく、語法も精密ではない。漢字の形意性とその構成システムは、中国語の特徴にみごとに適ったものである。一個の文字は一音節を記録し、普通は中国語の一個の語素を代表し、一つの意味を表示する。膨大な形意システムとその旺盛な造語能力によって、多くの中国語の語藁を記録し、複雑で変化に富んだ中国語の語一義を表現・伝播し、中国語の言語情報を自由自在に伝達することができる。この点からすれば、漢字は比較的理想的な中国語の媒体なのである。
 各種の複雑な原因のために中国社会は長期にわたって封建制度にとどまっていた。緩慢な歴史の中では、封建政治は専制へと腐敗したが開明的で清新な時期もあったし、自然経済は単調に後退したが不断の発展も幾分はあったし、理想観念は守旧の観念に束縛されたが一定の変革と刷新もあったし、社会の発展は緩慢であったが停滞して前進しなかったわけではない。閉鎖と開放、守旧と革新、停滞と発展が混交し繰り返し出現した、変動する一方で相対的に安定した社会だったのである。長期間大きな変化がなくゆっくりとしたリズムを持った漢字は、中国のような特殊な社会の要求にとても通ったものであった。
 まさに漢字には上述の特性と適応性があるので、長期間ずっと衰えずに民族のために働くとともに燦畑たる漢文化を記録にとどめ、広く発揚して、重要な役割を果たしてきたのである。
 漢民族の人民は長期におたる生産活動と社会的実践の中で、多様に発達した漢文化を創造し累積してきた。漢文化は中国イデオロギー領域の中で長期間主導的な地位を占めた儒学を核心として、「目強不息」「厚徳戦物」という中華精神を賛美・発揚することに務め、世界文化に深い影響を与えてきた。漢字には漢文化を記録し発揚した点が功績があるばかりでなく、その形意システム自体も、程度は同じではないが、漢文化の広範な内容を反映している。漢字の錯綜したシステム(とりわけ古漢字)では、中国の政治体制、皇帝権力、官僚制度、法律、哲理、宗教、神権、迷信、倫理、婚姻、民族、飲食、服飾、人の呼称や物の名称、姓氏、地名、交通、辺境地方、兵器、農具、耕作、牧畜、商工業、天文、暦法、地理、建築、医学等々に、字形と意味の点から解釈を待たれる資料があり、これは漢文化の保存と発展に重要な意義をもっている。

二、漢字の超時空性と漢文化の伝播・流布
 世界の原始文字はみな図画に起源し、最初の文字形式はみな象形であった。いわば図形を通して意味を表示したものである。後に次第に変化が生じ、あるものは図形化から発展して字形が成立し、更に字形で直接に意味を表示するようになったため、語音とは密接な関係がない。これは事実上文字が記号化されたものである。またあるものは字形が語音と結びついた後に意味を表示するようになった。これはいわば表音が先で表意が後というもので、文字の形・音・義(意味)という三要素が緊密に結びつけられたものである。漢字の変遷は前者の類型に属し、図画から象形・会意、そしてさらに記号へと到った。隷書以降の漢字には、もはや象形的な痕跡を見出すことはできず、ほとんど記号化しているのである。とはいえ、漢字は完全に表音ではないと述べようとするのではない。漢字システムには一定程度の「音化」傾向があり、大量の形声文字の音声は一定程度の表音機能をもってはいる。しかし、全体からみると主導的な位置を占めるものではなく、形によって意味を表すという形意システムに変更を加えるものでもない。
 漢字のもつ形意性によって、漢字は語音の制約を受けず、一種の超時空的な特性を付与されたため、口語から離れたあるいは口語との関連が密接ではない文章語を記録にとどめたり書き写したりできるし、時代あるいは方言区を異にする人々や違う言語を用いる人々にでも理解できるようになった。多くの研究者が指摘するように、こうして漢字で書かれた文章によって古今東西に通暁できるのである。中国では民族や方言区を異にする人々が顔をあわせ、言葉が通じにくい折には、漢字を用いて「筆談」ができる。漢字を使用する一群の国家や地域においても、言葉の障壁が交流の妨げになるといつも漢字の効験を頼みにして漢字で筆談をするのである。これには生の具体例が多く、筆者もこのような経験がある。交通地図を例にすると、日本の交通案内はとても詳細であり、各種の交通路線地図の路線名・地名・駅名は漢字で表記されているものが多い。これは、日本語を判らなくとも漢字だけ判る者にとって、まことに便利なことだ。そんな彼らが、日本を訪れ外出し電車に乗ったとしても、さほど不都合が生じることはあり得ない。こうした人々にとっては日本の交通地図における漢字は実質的に一種の記号となっているのである。
 漢字は時間と空間の制限を超越できる。それは漢文化の伝播および流布のためにはまことに有利なことなのである。
 中国国内においては、南方と北方の少数民族の一部ではとても早い時期から相次いで漢字の使用と漢文化の吸収を始めた。当初は踏襲。これは漢字や中国の書物を学ぶことである。次に借用。これは漢字で自分の民族の言語を表記することでしる。そこで漢字がその民族の文字になるとともに主に漢字を通して直接にかつ広範にわたって漢文化を吸収していった。最後は発展である。これは漢字の造字方法を採用し、漢字にならって漢字のような形の民族文字をつくりだしたことである。さらに漢文化と民族文化を結合させ、それらが融合してその民族の文化が成立したのである。
 中国以外では、すでに秦漢時期において、相次いで朝鮮、日本およびヴェトナム等の国に漢字が伝えられ、これらの国家の文字となった。人々は漢字を学び、漢字を用いた。「三字経」「千字文」を読み、公文書、上奏文およびその他の文章、書籍を漢字で書き、人名や地名を漢字で定めた。漢字はこれらの国家であまねく通用するとともに根をおろして発展していった。現在に到って、日本と朝鮮南部ではなお一部分に漢字を使用している。それとともにこれらの国家はさらに先進的な漢文化を大量に輸入したのであった。まずは農耕文化、陶姿文化等であり、後には金属精錬文化および仏教、医学、技術、天文、暦法等であり、そのうえ儒学を核心とする中国経典がある。これらの国家では漢字の借用、漢文化の吸収という面では、ほぼ踏襲ー借用-発展という三段階を経ている。現在では、シンガポールも漢字を使用し、一定程度の漢文化を保持している国家である。タイ・ビルマ・カンボジア・フィリピン・マレーシア・インドネシア等の東南アジア諸国の華僑社会でも漢字を使用し、漢文化を保持している。しかし、もともと漢字を使用していたヴェトナムと朝鮮北部では漢字を使わなくなったが、いまだにかなりの漢文化を保持している。
 一部の民族や国家が漢字を借用し、さらに一歩進んで漢文化を広範に吸収して以来、(漢字と漢文化輸は)その固有の文化と密接に結合し・漢文化の特徴を様々な程度に備えたその民族や国家の燦欄たる文を国際化が創り出されていった。これによって東南アジァ地区では徐々に民族や国家を越えた文化を形声していった。これこそが今日の我々が説くところの漢字文化なのである。漢字の超時空性は明らかに漢奴字文化の形成と伝播に対して重要な役割を果たしたのである。

三、漢字の主要な限界と漢字文化の多元的発展
 漢字にも欠点と限界性が存在する。漢字の欠点と限界性は漢字の利点と特性に随伴して現れる。これは事物の二重性ということの具体的な表現である。漢字の主要な欠点は、字数が多い、筆画が煩雑である、構成が混乱している、システムが暖昧である、表音度が小さい、口語とかけ離れている、等である。
 象形から稽書へ、古漢学から現代漢字へと到るうちに、漢字の字数がたえず増加し、ほぼ直線状に上昇する傾向を呈している。段周時代の甲骨文、金文の総数を確定するのに、すでに発掘された資料によって分析すると、おおよそ四〇〇〇字前後となる。漢代の『蒼頴篇』の収める字数は三三〇〇字、『訓纂編』は五三四〇字、『説文解字』は九三五三字、晋代の『字林』は三一八二四字、梁代の『玉篇』は一六九 ~ 七字、宋代の『広韻』は二六一九四字、明代の『字藁』は三三一七九字、清代の『廉窯字典』は四七〇三五字、現代の『中文大辞典』は四九九〇五字、『漢語大字典』は五六〇〇〇字前後である。漢字の字数は代々累積し、毎年平均するとほぼ二〜三〇字増えており、今に至るまでの総次数はすでに六〇〇〇〇前後に達している。そのうち通用字が七〇〇〇字、常用字が三五〇〇字である。こうした字数は多くないとはいえなくなっている。
 漢字の数量の不断の増加にしたがって、一つ ~ っの漢字の筆画もますます増えている。王鳳陽先生の統計によると、『甲骨文編』での総筆画数は一七六八六画であり、一宇平均一○・一七画、そのうち九〜一六画の字画五二%を占める。『金文編』での総筆画数は五〇〇八七画、平均一一・五三画、そのうち九〜一六画の字が五六%を占める。『経籍纂話』では総筆画数が一八四二三五画、平均一 三・六七画、そのうち九〜一六画の字は六一%、一七画以上の字が二五%を占める。『大漢和辞典』の総筆画数は七一五九四四画、平均一四・二八画、そのうち九〜一六画の字は五九%、一七画以上の字は三〇%、二五画以上の字数は全部で一四四三である(王鳳陽著『漢字学』第十七章第5節、吉林文史出版社、一九八九年)。ここからも筆画のおびただしさがわかるであろう。
 漢字の構造は、単純構造(または「全体型」)と複合構造(または「合体型」)の二類型に大別できる。複合構造はさらに左右型、上下型、内外型、嵌入型、重畳型等の数種類に分類できる。一見すると比較的単純ではあるが、実際上はそうではない。第一に単純構造の文字は、十有余種類もの多きにわたる。しかも現れる位置も、筆画が相互に及ぼす影響も様々であるため、往々にして位置によって様々な変体を形づくることになる。例えば、点には左点「´」、右点「`」、長点「ヽ」等の区別がありうるのである。第二に、複合構造の構成部分の序列は、部分の形式、数量、機能、部分間の関係等の多くの要素の制約を受けて比較的複雑に変化してしまう。第三に、構成については、各種部分から構成されるが、構成部分は一〇〇〇ほどの多きに達するため、その構成は雑然とせざるをえない。
 このように筆画が多く構成が混乱した大量の文字から成りたつ漢字システムの混沌としたありさまは、世界の文字のなかでも稀なものである。
 漢字は形意的性質の標音記号の一種である。秦漢以降には形声文字が大量に生まれた(『説文解字』の形声文字はほぼ総字数の八〇%を占める)が、さらにそれ以後も形声文字は着実に増加し、現在では総字数の九〇%前後をしめる。これには一定程度の「音化」の傾向が現れている。しかし、漢字の「音化」傾向は主要な傾向の「意化」の衝撃と拘束を終始受けてきたため、表音機能は弱く、語音との連携が直接的でも密接でもない。したがって表音が確実ではありえなかった。さらに語音システムの変化をうまく反映できないうえ調音システムが混乱し変化が多いので、表音機能は一層劣ることになる。このため必然的に漢字は口語からかけ離れ、本質的に表意文字となったのである。
 漢字にはこうした主要な欠点があるので、事物の変化と社会発展の要求にうまく適応できないし、漢民族および漢字を借用する民族や国家のために長期的に有効な働きをすることもできない。さらに様々な民族や国家の言語をうまく記録することもできない。こうした状況の下で、漢字の発源地である中国は漢字に対してたえずいかほどかの改革を行ってきた。比較的大きな改革は、清末から現在にかけて進行しており、それと同時に漢文化をさらに一歩進めて発展させ、漢文化を時代の色彩に富んだものにしようとするものであるかつて漢字を借用した民族や国家のなかには、前後して漢字の特徴を携えた新しい文字を作り出したものがある。例えば、中国北方の契丹文字、女真文字、西夏文字、南方の牡文字、郵文字、寄巴文字、係僕文字等、およびヴェトナムの噛文字、朝鮮の諺文、日本のカナがそうである。あるものはラテン字母を採用して新たに表音文字を作った。例えば、新壮文、新苗文およびヴェトナムの現在の国語字である。新たな文字を創り出した後に、漢字を廃止したものもあれば、新たな文字と漢字を併用、混用しているものもある。これと同時にこれらの民族や国家は漢文化を吸収する点においては、(漢文化と)自民族、自国家の文化とを結合させると同時にその他の民族や国家の文化を輸入し、多方面から吸収した文化を栄養として、自民族や自国家の文化を発展させていった。このように漢字文化はさらに多様多彩の趣を加え、多元的な発展の局面を迎えているのである。

四、漢字の改革規範と漢字文化のさらなる繁栄
 中国の最近の漢字改革には主として以下のような内容がある。形体の簡略化、字数の整理と簡略化、読音の修訂、配列・検字法の統一、「漢語拼音(中国語ローマ字表音)方案」の制定、漢字を科学技術用語に応用するに際しての問題の解決などである。
 数量の多さや筆画・構造の煩雑さおよび読音の混乱のために、漢字の学習と応用は容易ではない。だから、中国のそれぞれの時代に、一般社会では漢字に対して整理と改革を自発的に進め、筆画を簡略化し、数量を減らしてきた。そして、官の方でも、字体・読音および字義の規範化にさらに多くの注意を払ってきた。清末に到ってからは、中国の漢字改革は着実に高まりをみせており、とりわけ中華人民共和国の成立以降は、漢字に対してさらに多くの計画的改革を進めている。
 まず第一に、漢字の字体の簡略化である。先人の漢字簡略化の成果を充分に吸収した上で五〇年代中期に研究、制定、公布された「漢字簡化(簡略化)方案」では、五一五個の簡略化漢字を収めており、筆画をほぼ半分にまで減らしている。一九六四年に編集された「簡化字(簡略漢字)総表」では、偏旁を応用した文字を含め、全部で常用漢字の三分の二前後を占める簡略字二二三六個を収めた。「文化大革命」という特殊な歴史的条件の下で、一九七七年にあわただしく公布された「第二次漢字簡化方案(草案)」は、簡略字四六二個を収め、偏旁を応用した文字を含めると、全部で八五三文字になる。「草案」は、未熟なものであって問題が多かったことと漢字の字体が相対的に安定を維持すべきであるということが考慮されたため、一九八六年六月に正式に廃止された。漢字の字体の規範化に関連して、漢字の部分について分析・統計が加えられた成果が研究・発表された。
 漢字の数量を整理・簡略化する点においては、一九五二年に「二千常用字表」が公布された。一九五五年に公布された「第一批(第一次)異体字整理表」では、八一〇組の異体字を収め、八一〇個の正体字を選び出し、一〇五三個の異体字を淘汰した。一九六五年に公布された「印刷通用字形表」では、六一九六字を収め、筆画、筆形、筆順と構成部分の規範を定め、印刷、教育およびコンピュータ用字等のために通用漢字の標準字形を提供した。一九八一年に公布された「信息交換用漢字編碼字符(情報交換用漢字コード)集・基本集」では、六七六三字を収めている。一九八八年にさらに公布された「現代漢語通用字表」には、通用字七〇〇〇字(常用字三五〇〇字を含む)を収めている。この他、さらに漢字使用頻度の研究や統計の成果が前後して発表され、数量の研究や規範化のために信頼できる資料と科学的数量データを提供している。
 漢字読音の修訂という面では、一九五七年から一九六二年までの間に、「普通話(共通語)異読詞審音表初稿」正編、続編および第三編が前後して発表された。一九六三年には「普通話異読詞三次審音総表初稿」が編集され、一一○○余の異読詞と一九〇余の地名の読音に対して修訂を進め、標準読音を規定し、異読を排除した。一九八五年にはさらに「初稿」の改訂本である「普通話異読詞審音表」が公布された。
 漢字の配列・検字法の統一という面では、一九六四年に「拼音字母査字法(草案)」、「部首査字法(草案)」、「四角号碼査字法(草案)」および「筆形査字法(草案)」が発表され、文化・教育出版界の使用に供された。一九八三年には統一部首査字法草案が制定され、部首二〇一個を収め、関連方面の試用に供されている。
  漢字は直接に表音するものではないという不足を補うために、ここ半世紀以来の中国語音標表記の研究という経験を吸収し、先人の考案した多くの音標表記方式に基づき、真剣な研究と討論を経て、一九五八年にローマ字母を基礎とした「漢語拼音方案」が正式に公布された。この「方案」は音標文字化を目指すのではなく主に漢字の発音を示すとともに共通語の教育・学習のために用いられるものである。現在すでに「方案」は文化・教育・科学技術および社会生活の中で広範に応用されている。一九七七年には、国連地名標準化会議は中国語拼音字母を中国地名を表記する際の国際標準とみなすことを決定した。一九八二年、国際標準化組織は中国語拼音字母を中国語を表記する際の国際標準とすることを決定した。
 漢字の科学技術における応用を解決する面では、主要なものには、コンピュータの各種用字基準の制度を研究し公布すること、またコンピュータ印字およびレーザー漢字プリントにおける問題を解決することがあって、たとえば「信息交換用漢字編碼字符(情報交換用漢字コード)集・基本集』、『信息交換用漢字編碼字符集・輔助集」および多種のドット字体の設計方式等がある。
 上述の状況に現れているのは、中国の漢字改革とは、漢字の欠点を克服し、その不足を補うために、漢字の煩雑さと難しさを減らすとともに漢字の規範化・標準化を強化し、漢字を学習・応用しやすいものにして現代の社会と科学技術の絶えざる発展の要求に適合させるということである。漢字改革は漢字を消滅させるものではない。そもそも漢字を人為的に消滅させることはできないのである。事実上これは、漢字の長所を強化・発展させ、漢字を着実に現代化して現実的な役割をさらに発揮させるとともに漢字文化のさらなる繁栄に有利にすることにほかならない。
 確実に予見しうることは、今後かなりの長期にわたる歴史時期において、漢字は着実な変遷と不断の規範化のなかで、常に青春を保持し、漢字文化を記録し、広く発揚するためにずっと貢献を果たしつづけていくだろう。そして、各種の現代化事業が飛躍的に発展する今日において、漢字文化の基礎を備えている各民族や国家は、各方面での協力を強めていくであろう。それと同時に、文化交流を強め、新たな文化的成果を相互に吸収して、自民族、自国家の文化をさらに発展させると同時に漢字文化を豊富なものにしていくことであろう。

《主要参考文献》
『漢字問題学術討論会論文集』、語文出版社、一九八八年。
王鳳陽著『漢字学』、吉林文史出版社、一九八九年。
周有光著『世界字母簡史』、上海教育出版社、一九九〇年。
羅常培著『語言与文化』、語文出版社、一九八九年。
張岱年、妾磨輝著『中国文化伝統簡論』、漸江人民出版社、一九八九年。
超光速主編『民族与文化』、広西人民出版社、一九九〇年。
『中国文化与中国哲学』、東方出版社、一九八六年。
候外虚主編『中国思想通史』、人民出版社、一九六三年。
柳論徴編著『中国文化史』、中国大百科全書出版社、一九八八年。
護家健主編『中国文化史概要』、高等教育出版社、一九八八年。
『仏教与中国文化』、上海書店、一九八八年。
銭学森主編『関千思維科学』、上海人民出版社、一九八六年。
『中国大百科全書・語言文字』、中国大百科全書出版社、一九八八年。
F・普洛格、D・G・貝茨著『文化演進与人類行為』、遼寧人民出版社、一九八八年。
 
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崇高な理念には理解や評価が不能

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月 7日(水)22時03分22秒
   ノーベル賞を始め、幾つかの日本の優秀な技術や業績、能力が、日本国内では低く評価されているにも関わらず、世界では逆に高く評価され、それに追随したようにして、日本で初めて高く評価されるといった例も頻発しております。これも日本人の嫉妬や妬みも関係しておりますが、どうもそれだけではなく、やはり、日本人の相対化する意識の表れであるように思います。即ち、絶対的なもの、優秀なものを、格別・崇高なものとして容認しない、バランス感覚に長けた相対主義であります。

 これはある意味では、独裁的・権力的なものを極力嫌悪していくものでもありますが、崇高で絶対的な価値観に関しては、排除し否定していく本能が働くというものです。一見すれば、両極端を排除して中庸・中道の精神であるように思いますが、また事実、横並びの集団主義でやってきたわけでありますが、これは崇高な理念や指導者すら排除するものであり、常識を越えた破天荒な発想もできず、また真に創造的なものは生まれてこないし、また生まれても理解も評価もできないということであります。換言すれば、日本文化は物真似でしかないと言われるのもその通りでしょう。外部の良く似たものが前提にあって、その改良を生み出していく創造力であり、無から生み出すような絶対的な価値観に対しては、本能的に嫌悪し排除していくような傾向を有しているように思います。

 当方もかつて、数千年来の常識を越える画期的な火山灰利用の新素材技術の紹介や、二千五百年前の釈尊以来の、仏身顛化という聖心先生の歴史的大偉業の達成や、そこから生誕した数々の崇高な理念を提示してきましたが、殆ど誰も関心もなく、理解も評価もなく、殆どが嫌悪・中傷・排斥・無視でありました。これはもはや、当方の説明不足というものではなく、実に日本人の国民性にあったと言うことです。出る杭を打つとか、横並び思考で集団主義、相対主義で曖昧情緒性で、その結果、画期的な技術や歴史的大偉業に対しても、無関心や無感動の傍観者的態度を取ったり、無責任に陥りやすく、外国から指摘されて初めて気付くことも多いということです。これは残念ながら、猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏というものであり、日本人特有の近視眼的思考に帰着するように思います。

 これまでにも、画期的新素材技術の紹介を兼ねて、日本経済及び世界経済の直面する資源・エネルギー問題の窮状を救済するための国家的プロジェクトの政策を提示してきましたが、全くの無関心でした。今回、再度、『新日本列島大改造の実践に向けて』と題して出版しましたが、これも、案外、曖昧情緒的で猜疑心旺盛で無関心・無感動な日本人よりも、好奇心や興味の旺盛な外国人により、関心を持たれていくものではないかと思っております。その結果、日本は大きく出遅れて、多大なる後悔に繋がっていくことを懸念するものですが、因果応報、自業自得であり仕方ないものでしょう。

 また、二千五百年前の古代インドにおける釈尊以来の、人間を超えた仏身顛化という歴史的大偉業を達成された聖心先生のご紹介もしてきましたが、全くの無関心・無感動でした。これも、後で紹介するように、近いうちに内容を改めて出版します。聖心先生のご感想では、日本人の国民性では、地球規模の天変地異などの余程の破局状態を迎えない限り、国民意識の変革もなく、関心も理解も評価も有り得ないというものでした。恐らく、聖心先生の歴史的大偉業に対して、心より関心を示されて来られる方は、歴史上を通じても、弘法大師、源義経、徳川家康、新井白石、荻生徂徠などでしかないだろうということでした。平安な時代でこそ、平安な心魂により真実が見えてくるのであり、騒々しい時代では心魂も乱れて無理であろうということで、また日本人特有の変わらぬ曖昧情緒的で無節操な国民性では不可能であろうということでした。またあらゆる先入観や固定観念、既成概念を、大胆に振り切り投げ捨て去るほどの、幾多の苦難を身命を賭して克服してきた破天荒な心魂の持ち主でこそ、心の奥底から心を寄せて理解し評価できるものであろうと言っておられました。

 ただ騒々しい近代では殆ど駄目であり、現代でも、万一、ロッキード事件がなかったならば、田中角栄氏は、多くの国民の誤解と偏見に基づく非難中傷に反して、その破天荒で虚心坦懐な心魂により、聖心先生の元に心を寄せて来たであろうと言っておられました。むしろ、聖心先生を嫌悪して来なかったからこそ、また「ワシに法華を勧める者がいるが、ワシは真言だ」などと言って反発していたからこそ、事件からも解放されずに失脚していったものと思われます。当方がかつて提示した画期的新素材による「新日本列島大改造論」を率先して実践しておれば、再度、国家の指導者として再起を期すことも可能であったものですが、残念ながら、ロッキード事件に忙殺されたせいか、その真意が理解できず評価もできなかったようです。また信仰心の篤い某元総理にも期待したのですが、残念ながら全くの無視のようでした。なお、選挙期間中に倒れた某元総理は、日記に「信じ難きことを信じるなかれ」と書き残したようですが、国民や周囲の者には何のことやら分からなかったようですが、案外、聖心先生のことを意識していたように思います。

 ところで、日本では、渥美清主演の「フーテンの寅さん」が国民的共感を呼びましたが、この寅さんの心理こそ、日本人の国民性に共通しているものでしょう。崇高な権威に対して、「なに、お高くとまってんだよ、一体何様のつもりよ」などの阿諛、嘲笑、軽蔑、蔑視の態度は、実に溜飲を下し拍手喝采ではあります。実際に、フーテンの寅さんは、僧侶に対して、バカにしたような言動をしていたように記憶しております。しかし、これは真に崇高なものに対しても、うっかりすると、偽物と本物の、また低俗と崇高さ、神聖と邪悪、真正と虚偽、清浄と汚濁との区別が付かないで、画一的に判断し排除して平準化して行きやすい面もあろうと思います。即ち、両極端を一律に否定し排除し切り捨てて行きやすく、何時まで経っても何が真理で本物であるのか分からずに、迷走することにもなります。これでは、人間を超えた仏身顛化という歴史的大偉業を達成された聖心先生に対しても、「てめえ、ふざけんじゃねえよ、人間を超えた天上天下唯我独尊とは一体何様のつもりよ」と軽蔑してくるのが通常というものでしょう。こうした日本人の国民性では、偉大な仏という概念すら理解も評価も困難であるのは当然でしょう。聖心先生も、日本や世界にとって大きな損失であると言って、「日本人の国民性では駄目である」と漏らしておりました。外国であったならば、即座に評価し心を寄せてきたであろうということでした。
 

日本の常識は世界の非常識(建前と本音の乖離)

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月 7日(水)22時02分19秒
   日本人社会には、あまりにも多くの建前と本音が乖離した現象や国民心理が多いように思います。勿論、これは何も日本人だけの特徴でもなく、世界中のいろいろな国民にも、一応、建前と本音の相違があるのですが、大抵が次第に解消していく傾向が強いものです。然るに日本では、この建前と本音の乖離が何時までも継続して、なかなか解消することもなく、本質的に建前と本音を使い分ける国民性に至っているようで、何処までも建前と本音が共存していくという支離滅裂、無節操、思考分裂のまま継続していくことが多いように思います。この日本人社会に見られる建前と本音の乖離の事例を集大成すれば、大変興味深いもので、今後の研究材料でもあろうと思いますが、日本人自身が気付いていない側面であり、外国人の方が、むしろ客観的に観察できるのではないかと思います。

 やはり、灯台下暗しであり、日本人の心理や日本人社会の特徴などは、特定の研究者以外には、普通の日本人では容易に解明し理解できないのではないかと思います。それでも、研究者にしても、余程、自分自身を客観化して、社会や心理を大局的見地から観察していかないと、本質が見えてこないというものでしょう。ましてやその因果関係や相関関係にまで思いが至るのは困難なことかと思います。何事も相手のことは観察できても、自分自身のことは容易に解らないものです。医者でも聴診器で相手の健康を診断できても、自分自身の胸に聴診器を当てて診断することは不可能に思います。また易者にしても、相手の手相を占うことが出来ても、自分自身の手相から自分自身の運勢を判断するのは、無理ではないかと思います。この調子で、日本人自身が自分たちの心理や国民性、社会を客観的に分析し判断し理解していくことには限界があるように思います。

 ところで、建前と本音が乖離した事例で、案外、日本人自身が気付いていない日常生活における面白い実例を挙げて見ましょう。例えば、何かを勧められて、「何でも良いです」と言う言葉が日本人社会では蔓延しているようです。ここにこそ、建前と本音とが乖離しているものであります。何でも良いとはあくまでも建前であって、本音は別にあることが多いものですが、決してそれを明らかにしないところが奥ゆかしさや謙虚さなどと絡んで国民性の一端を形成しているようです。例えば、料理にしても、「何を食べますか」と聞かれて「何でも良いです」と言っておきながら、「それでは肉にしましょう」と言われると、「肉は駄目です」と本音が出てくることがあるようです。最初から本音を言えば良いものですが、なかなか、簡単に本音を言わないところが、日本人の国民性でしょう。

 実にこの「何でも良いです」は世界的な常識からすると、何と消極的で主体性のない受け身の姿勢であるかと思うのが一般的な見解でしょう。しかしながら、日本では、この「何でも結構です」とは「何でも挑戦します」という実に積極的で前向きの姿勢であることにもなっているようです。逆に、あれこれと主張することは、「これが嫌だ、あれが嫌だ、これしかしたくない、あれしかしたくない」と気まま・わがままで、協調性がなく、不満不平の心理を表すことになります。実に、世界の常識と日本の常識が大きく離反し乖離していることが解ります。

 具体的な実例を挙げてみますと、まず、会社でもいろいろな組織で、社員に対して「希望調査」を行うことがあります。これは日本とアメリカでは随分と状況や対応が異なるもので、実に国民性が反映されているものです。希望調査に対して、日本では馬鹿正直に、「あれがやりたい、これがやりたい」等と自己主張するものならば、まずはそのような希望が満たされる可能性は少なく、むしろ逆の結果になることが多いようです。これは、希望を主張すればするほど、「彼奴は現状に対して不平不満を有している。現在の境遇に対して協調性がない、忍耐心がない」等と評価される場合が多いのです。そこで、上司が期待する「何でも挑戦する」という積極性に反して、「あれがしたい、これがしたい」という自己主張の強い積極性は、実に「あれしかしたくない、これしかやりたくない」等と解釈されて、「彼奴は消極的だ」と評価されるのが通常です。むしろ、「特に希望はありません。何でも結構です」等と応えておく方が、「彼奴は何でも挑戦意欲があって、積極的だ」ということになるものです。実に、自己希望の表明自身が、日本では、現状への不平不満に受け止められていくものであり、「何でも結構です」が挑戦意欲の旺盛な積極的であるという評価に繋がるものです。即ち、日本では、「希望調査」は実質は現在の境遇に対する不平・不満の度合いを調査するものであり、主張すればするほど、逆効果となることが極めて多いものです。要は、自己主張を自主的にも制限することは、ある面では責任逃れでもあり、管理されやすい体質を自ら生産しているとも言えるでしょう。社会の隅々に至るまで、こうした自己主張しないで、長いものに巻かれた体質を形成してきているようで、会社の取締役会でもこれまでは右に倣え等といった黙り会議も多かったようです。ところが、株主からの訴訟での責任追及でそうした体質にも大きく変革が迫られているようです。

 これが米国ならば、全く逆でしょう。米国ならば、「何でも結構です」とは、実に受け身で消極的で没個性的、主体性がないと見られるものでしょう。そして自己の希望を主張すれば、適切と判断されれば、「よし、やってみろ」と言われることが多いのではと思います。そして失敗すれば、自分で主張したのだから自ら責任を取るという自己責任の原則が貫徹して、即ち、米国では自己主張と自己責任がセットになっているように思います。それ故に、アメリカでは思い切った抜擢もあるが、降格や左遷もあるのだろうと思います。

 然るに、日本では、「何でも結構です」と言っておいて、上司が適材適所で判断していった折りに、万一にも失敗すれば、適当に選択して判断した上司こそ責任を取るべきだという風潮が強いものです。つまりは、日本では自己主張しないし自己責任も取らない無責任体質、また自己主張をさせない代わりに自己責任を取らせない甘えを助長するような空気や雰囲気が蔓延していると言うことでしょう。実に日本では思い切った抜擢もない代わりに、極端な左遷もなく、責任追及もないということであり、ここに、無責任と甘えと出る杭は打つの嫉妬や妬みの国民性が存在していると言えるでしょう。

 よく定年間際になって人生を振り返って、希望調査に際して、あれほど積極的に自己主張してきたのに、どうして逆の部署にばかり回されたのかを不審がる者が多いようですが、実にこうした日本独特の空気が読み込めずに、馬鹿正直に率直に建前どおりに対処していくと、とんでもない本音に翻弄されるということでしょう。建前の背景や裏には、思いも付かない思惑や意図があるということでしょう。実に建前と本音が大きく乖離し相違することの多い社会が日本ということです。この原因が実に建前と本音を巧妙に使い分ける日本語の二重構造にあるというものでしょう。最早、こんな二枚舌を繰り返しているようでは、国家社会が破綻していくことであろうと危惧するものです。即ち、自己主張もさせずに、無責任で優柔不断を強制し、何処までも問題解決を先送りする体質の成れの果ては、内部からの溶解に他ならないものでしょう。

 これは会社以外にも、社会全体に表れており、スポーツの世界でも言えるものでしょう。例えば、野球でも、以前に、某高校生が希望の球団や守備を自己主張したら、周囲から大変嫌われたことがありました。日本では、「自分は某球団に入りたい、サードの守備をしたい、三番打者をやりたい」等と公言しようものならば、「彼奴は、某球団しか入りたくはない、サードしか守備したくない、三番打者しかやりたくはない」等と評価されて、「彼奴はわがままだ、欲が深い、使いにくい、協調性がない」と言うことになるものです。むしろ、「何でも結構です」と言う方が、「素直で協調性があって挑戦意欲が旺盛で積極的だ」と評価されていくものでしょう。

 なお、今や国政レベルでも、日本独自の非常識な見解や行動が氾濫しているようです。例えば、戦後六十年余りを経過しても、自衛隊は軍隊か否か、憲法違反か否か、などと実に不毛な議論が延々と続いている有り様です。自衛隊は法制度上はともかく、世界の常識からすると、明らかに実態は軍隊でありましょう。集団自衛権の解釈でも、権利は保有するが、憲法上は行使できないなどの見解が堂々と罷り通っている有り様です。こんな風に、権利を保有できる(保有しかできない)権利と、行使できる(行使までできる)権利を乖離させていくような解釈は、世界の常識に大きく反するものでしょう。権利と言えば、保有も含めた行使することが可能であるのが世界の常識でしょう。生存の権利にしても、選挙権にしても、保有はすれども、行使ができないなどは、杓子定規に囚われた詭弁以外の何ものでもなく、権利の意味が分かっていない非常識な思考に陥っているものでしょう。

 目下、グローバル化社会を反映して、大いに国際感覚や国際的常識を有するように、日本人の国民性を根底から見直して、自己主張や自己責任とか、個性の尊重とか、コミュニケーション能力とかを発揮するように、教育面からも、社会的にも、国際的にも喧伝されておりますが、簡単には進展していかないように思います。何故なら、大和朝廷時代から、いやその前からも、実に千数百年間、あるいはそれ以上にも亘って形成されてきた日本人の国民性の変革には、単なる精神主義の小手先を弄した改良だけでは済まないと思うからです。建前と本音の乖離といった日本独特の曖昧で二枚舌の言語習慣を廃絶することが必須と言えるでしょう。ましてや正しい日本語とか、美しい日本語にと皮相的で表面的な改革に留まっている限りは、国民性の変革は限界であり、また不可能であろうと思います。
 

内向き、縮みの国民性

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月 7日(水)21時59分54秒
編集済
   日本語社会を形成する格言にも、「出る杭は打たれる」とか「沈黙は金」とか「長いものには巻かれろ」などと言われて、日本人の心理を内向きに消極的に規制して社会の空気を形成してきたわけですが、実にこれこそ、曖昧情緒的な日本語特有の性質が曖昧で無責任で全て問題回避の優柔不断の思考感覚に慣らされた国民性を形成してきたと言えるでしょう。そしてこの点が、今や国際的にも国内的にも多大な欠陥として浮上してきたと言えるものです。即ち、受け身的で内向き思考、縮み思考の消極的でナイーブで幼稚な思考に堕落し、お人好しで悪意を見抜けない国民性、そして自己主張能力も欠如し、現実や真実を分析し推察できない、空気や雰囲気や流れに左右され易い情緒的な国民性を形成しているものです。これはある意味では、変わり身の早い変節、無節操、無定見、無思想の国民性であり、他方では柔軟性に富んだ長所でもありますが、国家危急存亡に際しては、明確な行動や意志決定がなければ、逆に迷走し漂流する欠点が優っているものと憂慮します。

 なお、日本人が内向き、縮みの国民性を有しているのは、韓国人の李寧煕氏が指摘しているように、日本語の言い回しの中に、打ち消し、否定的、後ろ向き、内向き、遠回し、婉曲的、穏和で柔和な表現、謙虚な言い回しなどの表現が多いことでも分かります。実に、自己主張を回避し相手を気遣う表現、刺激しない繊細な表現、葛藤や対立を回避する言い回しが氾濫しているようです。例えば「ではないでしょうか」「何々と思います」などであります。相手の気持ちを配慮し汲み取ることにより、無用な摩擦や軋轢、葛藤を回避する傾向が、受け身の穏和な表現を好むようになっており、時には内向きが極端に高じて自虐的になっていくように思います。

 出る杭を打って批判を封じることが高じると、有能な才能は押し潰されて鬱屈し、忠義・忠誠心にもひびが入りやすくなるものです。また、逆に出る杭が高じて、しきたりや掟を破って独自の行動をしていくと、周囲の反発を招き、何れにしても周囲に嫉妬や妬みが充満する社会になりやすく、必然的に内向きになっていくものです。また、画一的で横並びの集団主義を強要する社会では、あまりに調和を乱す者に対しては、極端に排除の精神を発揮していくことになり、これも内向き、後ろ向き、縮み思考に拍車を掛けることも多いかと思います。また嫉妬や妬みの充満する社会では、時には周囲の空気を窺い観察する才能に長けた、繊細で微妙な感受性の旺盛な国民性にもなっていきますが、別の面では、感情の異常な高ぶりや葛藤の氾濫し充満する神経質な社会にもなっていきやすいと言えるでしょう。こうして葛藤が高じやすい社会では、まともな議論もできずに、意見を批判と感じたりして、直ぐに感情的になって、単純で短絡的な思考が蔓延するようになるものと思います。こうした欠点は、社会が右肩上がりで成長しているときは問題ないでしょうが、大きく行き詰まってきた場合には、特異な個性や優秀な能力を排除してきた付けが回ってきて、社会的には大きな損失をもたらしていくことでしょう。

 なお、出る杭を打つの日本では、改革意欲を示せば、「現状に不満である」との評価が先走って、抑圧されやすいものです。例えば、憲法改正にしても、その必要性を指摘するだけで、順法精神に欠如するとかで攻撃される有様です。これでは永久に指導者たる者は改革を実行するどころか、改革を口に出してもいけないなどと呪縛が蔓延しているもので、極めて保守的な反動的で、批判を許さない雰囲気や空気が支配していると言えるでしょう。現状の問題点を分析して批判し、改正の必要性を指摘するだけで、現状遵守の義務に欠けるなどの本末転倒した後ろ向きの議論では、永久に改革を口にするなということでもあり、未来志向ではなく、現状固定の保守主義主義であります。これが革新勢力と言われているのですから、日本では、何が革新か保守なのかの区別も明確ではありません。

 もはや、長年、国民意識を支配してきた「出る杭を打つ」「沈黙は金」「長いものに巻かれる」「喧嘩両成敗」の国民性では、自立した個性も自由な創造性も発揮できないものでしょう。コミュニケーション能力を発揮する教育が大きく喧伝されていますが、そもそも自己主張を抑制し、穏和で婉曲、後ろ向き、内向き、受け身、打ち消し、排除、否定的な表現を多用する日本語を、好感をもって抵抗なく自然に使用する日本人の国民性では、どこまで効果を発揮できるのか大いに疑問です。実に千数百年にもわたって形成されてきた国民性を変えるには、曖昧な日本語自身を単に正しく美しく奇麗に改良して使おうとしても、既に限界であり、無理、不可能であるように思います。
 

民族、国民性を決定する要因とは

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月 7日(水)00時06分43秒
   民族や国民性を決定する要因としては、民族独自の宗教観や信仰観、そして言語や自然環境や食べ物、更には法制度でありましょう。宗教観では神道や仏道、そして道徳、倫理、礼儀も含めれば儒教などであり、言語では日本語であり、自然環境であれば、周囲を海に囲まれて、豊かな海や山の幸に恵まれ、四季の明確な過ごしやすい生活空間でありましょう。また食べ物で言えば、大陸系の遊牧肉食と異なって、魚や野菜、米を中心とした稲作漁猟文化であり、そして法制度であれば、日本独自の聖徳太子の十七条憲法で言う和を尊ぶ精神や天皇制であり、そして世界各国に存在した封建制も何らかの関係を有しているものでしょう。この中で一体何が最も核心的であり、最優先のものであるのでしょうか。勿論、これらは複雑に相互に関係し合っているものであり、単純に一つの因果関係に集約できるものではないことは明らかでしょう。この中でも大きく言って、やはり、国民性を決定してきた最大の要素は、神道や仏道、儒教などの信仰観・倫理観と、日本語という独自の言語ではなかったかと思います。そして幾多の法制度も、信仰観や倫理・道徳観や日本語に何らかの影響を及ぼしながら、如実に反映されてきているように思います。

 さて、今や日本人を真に日本人たらしめる要素、要因は一体何であるのか、真剣に吟味検証していくことが求められているのではないでしょうか。即ち、我々日本人は一体最後まで守るべきものは何であるのか、我々日本人の民族性・国民性を決定する最大の要因は何であるのかといった根本的課題に思いを至らせる時期に来たと言えるでしょう。当方が幾多の試行錯誤の果てに確信するに至った結論的な解答は、実に日本民族、日本国民を形成し決定する最大の要因こそは、幾多の変遷を経て変質され改竄されてきた日本語の言語それ自体ではなく、正に宗教観や信仰観であり、特に世界的普遍性を有し、日本民族固有の宗教観であり信仰観である「神道」にこそあるべきものということです。この神道とは、決して現在の様々な教派が氾濫する神道(教派神道)を指すものではなく、教義、教典、教祖もない信仰の原点とも言えるものでしょう。

 実に遠くない将来において、我々日本人をして、世界の模範・規範となって世界を指導し教導する真の日本人ならしめるものこそは、長い伝統の源流ともなって世界普遍の宗道とも言える「神道」であり、そして「神道」を基礎に据えた「仏道」であり、歴史的宗教改革の総決算としての両者の融合・実践でありましょう。それに併せて道徳、倫理、礼儀などの規範として「儒教」も関係してくるものでしょう。実に日本人や西洋人を始め、世界的にも共通して言えることは、国民や民族の意識を形成している最大の要因である絆や規範は、実に宗教観や信仰観、道徳観にこそあるというのが真理ではないでしょうか。
 日本語を話すから日本人としてのアイデンティティ(同一性、独自性、固有性)を有するものではないでしょうし、それは外見表面的なものでしかないように思われます。実際、日本語を話す日本人でも、その心は外国にあって、売国的、亡国的な言動に走る者も多いようで、日本語を話すから日本人であるという考え方は、この際、再考していくべきではないでしょうか。これまでにも、日本人の国民性を形成してきた要因には日本語も大きく影響を及ぼしてきた面は否めませんが、真に日本人としてのアイデンティティは、幾多の変遷を経てきた表面的な日本語ではなくて、日本人の奥深い心象、心魂を形成してきた神道であり、仏道であり、儒教精神であったものと思われます。現在、そうした宗教観や信仰観が喪失されつつある中で、日本人としての一体感・同一性も喪失しつつあると思います。それが日本語の乱れにも大きく影響を及ぼして、国民性を堕落崩壊せしめているものでしょう。

 日本語はあくまでも民族国民性を決定する要因の付属的・付随的なものであり、また表層的・表面的なものでしかありません。今や、世界的な視野に立脚して、そして歴史的展望を踏まえて、日本語に内在し招来する幾多の弊害に焦点を当てて、検討・検証を加えていく時期に来たと判断するもので、場合によっては根本的な見直し・改訂が必至となってくるものでしょう。この日本語自身が、時代の変遷と共に変質を余儀なくされており、古来、些かも変化しておらず純粋性が保持されてきたとは言えないものです。むしろ神道や仏道や儒教などの普遍的原理・規範こそ、普遍的日本人の価値観を形成し、思想や行動を決定して来たものであり、今後とも決定していく最大の要因と考えていくべきではないでしょうか。勿論、神道や仏道、儒教においても、長い歴史を経て幾多の誤謬や偏見も多いことも確かですし、それらの歴史的な見直し・改訂と共に、新たな構築も必至かと思いますが、基本的には、それらの信仰観が基礎になっていくべきものではないでしょうか。

 ところで、西洋人を西洋人ならしめて、彼等の思想を形成してきた背景には、英語などの言語も関係しており、他には、遊牧・畑作などの生活環境も影響を及ぼして来たことでしょうが、実に根本要因としては、キリスト教でありユダヤ教の精神であろうと思われます。今日、西洋文明の形成に大きく影響を及ぼしてきた最大のもの、あるいは今後の西洋文明の行き詰まりと崩壊に関係していると思われるものは、一体何であるかを詳細に検討し考察すると、実にその根本的な要因、元凶は、言語や食生活習慣、服装というよりも、精神や心魂を形成してきたユダヤ・キリスト教文明に他ならないものと思われます。因みに、世界に離散し流浪してきたユダヤ民族をして、今日一体感や連帯感を形成しているものは、ヘブライ語の言語が中核というものではないし、ヘブライ語を話すイスラエルのユダヤ人だけが真のユダヤ人でもないでしょう。やはり、ユダヤ教を信仰する者がユダヤ人ということであり、これがユダヤ民族である証明でもあり、長い間ユダヤ民族を結合・結束させてきた要因として、今では世界的な定説・常識でありましょう。

 こういう考え方には、日本語を心底から崇拝し、外国言語を嫌悪しやすい愛国民族派の方々は勿論、英語の必要性や重要性を声高らかに強調する国際協調派の方々も、神道の重要性への認識や宗教観念にも希薄で、日本人の真のアイデンティティに関してはかなり抵抗があろうかと思います。しかしながら、今や単に日本語を話すからと言っても、頑迷固陋に神道を忌避・排斥し、仏道を嫌悪し排除し、儒教精神を封建的と称して排他消滅させつつ、日本の国歌国旗にも愛着の念すら感じないで、心魂は外国に向けられている亡国的な者達が大変多いのも事実です。こういう由々しき現実世相を直視していけば、自ずと我々が最後まで守るべきものは一体何であるのか、そして真の日本人としてのアイデンティティは如何なるものなのかが見えてくるのではないでしょうか。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

丁寧な御理解に感謝

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 5月21日(日)10時13分1秒
   昨日は感慨深いお電話をいただきまして有り難うございました。殆ど誰も関心を示さずに幸先真っ暗な中で、丁寧に読んで理解されて下さって、微かで仄かな光明を見い出した感じです。また、進化論とかイルミナティにも関心がお有りとは驚きでした。私の本は沢山売れて幾ら儲けたと言う類のものではなく、要は中味の実行が大切でありますが、今の政治家や官僚では誰も実行できないでしょう。経済界が結集するか、私が抜擢されるしかありませんが、日本的風土や環境、国民性では余ほどの大破局が到来しない限り、殆ど無理でしょう。目下は国民が無視したことで、後日、壮絶な懺悔となってくることを期待するものです。後世の歴史家が気付くように、歴史の記念としての出版でしかありません。

 恐らく、外国に出し抜かれて一部の先見性のある方々のみが懺悔する方が勝っているように思え、それ故にこそ、第3冊目の本と併せて、国民全体が無視するからこそ、第2冊目の、「日本人の国民性では駄目だ!」の副題の本が生きてくるように思います。この国民性の原因が実に日本語にあると指摘するもので、これも誰も解明していない歴史的研究成果であります。そして一部の有識者が気付いていても、解決策が美しい日本語や正しい日本語に再帰とか言った曖昧模糊の解決策か、カタカナや漢字を排除して言語鎖国をしろとか、ひらがなやローマ字表記にしろとかであり、全く時代に逆行するものでしかありません。それに、目下、小学校や幼稚園から英語教育とかで、既に実施しているところも現れており、現場が大混乱しているようです。それに対する歴史的な問題提起でもあります。

 なお、日本語的発想や思考がその内に世界から見直されるなどと超楽観論を述べる方もいますが、過去の国難の歴史的突破は国内外の環境によるものが大きく、むしろ日本語的思考が、無責任で問題解決先送りで、実に国家破産に導こうとしているものです。その辺の因果関係が誰も整理し理解できていないようです。また、色々な考え方があるのですねなどと傍観的無責任に感想を述べる方もおられますが、それこそ、結論や選択、評価や判断を曖昧にして、相対的思考しかできない日本人特有の心理や発想でしかありません。私は著書の中で、英語の圧倒的浸透の中で、日本語が次第に混乱し衰滅していくのを座して待つのか、言語鎖国をするのか、それとも思い切った歴史的大転換を成し遂げていくのかの、正に歴史的選択の岐路に来ていると指摘するものです。ただ日本人自ら積極的に、日本語を見直さなくても、2008年の国家破産でIMF管理になると、かつてのマッカーサーのように、外国から強制されて実行される可能性も高いでしょう。その折に際しても、悲観絶望的になるのではなくて、むしろそのような事態を招来した国民性を変革する好機と捉えていく問題提起をしているものです。

 目下、2冊目の本は殆どの方が猛反発されるようです。これは愛国・民族的で真に日本の将来を懸念される中で、大きく挫折されて、国家の将来や日本人の国民性に絶望しておられる方でないとなかなか理解できないように思います。私の親戚の90歳近いおばさんは、日本人は利己的で自分中心主義だと言って大変理解しておりました。私も人生最後にそんな言葉を聴こうとは思ってもいませんでしたが、こうした感覚や経験を経てこないと理解できないように思います。先頃まで政権の中枢にいて、現在、失脚した某政治家も、四面楚歌になって始めて、日本人は利己的・自分中心主義だと実感できたようです。

 ところで、現在の日本は国民貯蓄が1400兆円もあるとかで勤勉性が指摘されておりますが、これも見方を変えれば、自分のことだけ考えて貯め込んだとも言え、既に過剰貯蓄が経済の循環を阻害し、消費や投資を減退させ経済をおかしくしたとも一部の有識者からも指摘されております。それに、他方では、GDP比で2倍の歴史的にも例のない1千兆円もの巨額の公的債務を抱えており、これもある意味では、自分中心の利己的に考えて税金の国家予算にたかり奪い合い、後世のことや国家社会全体のことを考えてこなかった結果とも言えるでしょう。最早、2007,8年頃から国家破産の危機が表面化することでしょう。それ故にこそ、2006年内にも開始される米国のイラン攻撃と、それに伴う対抗措置として、イランによるホルムズ海峡封鎖による原油高騰と併せて、一挙に危機が表面化して来るに連れて、私の一連の本も注目を浴びてくることを期待するものです。

 矢張り、危機が目に見えて本格化しなければ、正常に思考展開できないのが日本語を駆使する日本人の国民性であります。実に戦略的思考、未来思考が出来ない欠点を有するものです。既に、最近発行の本で「中国が世界標準を握る日」(光文社)で指摘されていますが、今や特許を大きく超えて世界標準に対する戦略で日本は大きく出遅れていくようです。私が指摘するように「国家的な特許戦略こそが日本の命運を決し、その戦略不在により、日本は三流国に転落していくであろう」の憂慮すべき事態が現実になろうとしております。こうした三流国家への転落も、実に国家戦略の欠如であり、国民性に他なりません。

 ところで、最初の火山灰関係の本は、昨今の原油高騰の情勢を反映して、緊急性もあって、当方が300冊ほども購入してマスコミや政財官界に配布したり、チラシだけでも企業やマスコミ、地方自治体や在日外国大使館など全部で1千カ所も郵送し、また様々な会合などでも、総計2万枚ほど配布し、メールだけでも1千通もの送信してきました。

 現下の厳しい状況を鑑みて、国家的レベルで広く国民の関心を期待していたのですが、日本人特有の近視眼的で危機感も危機管理もなく、自分中心で利己的な国民性もあって、大して関心を持たれることもなく、一部の方を除いて、25年前と何ら変わりのないもので、殆ど無視、無関心、無感動の状態でした。チラシを大量に配布した割には、関心もなかったようです。壮大な国家プロジェクトを実行できる実行力と構想力に富んだ政治家や評価する者もなく、中味の実行にまでは至ることもないようです。今後の激動の国内外の情勢の進展や外国からの関心に期待するばかりですが、万一、世界が注目しなければ、壮絶な原油争奪戦に突入して世界経済が崩壊するは必定でしょう。一連の当方の本は、正に、昨今の原油高騰や、2008年頃に襲来する日本の多額の公的債務による国家破産に焦点を合わせて、新たな国家社会の建設に向けた指針・展望でもあります。実に、私の人生の運命と国家や世界の運命とが不思議と重なってきたように思います。

 なお、最初の本は、私が目下所属している日本公共政策学会に会長賞を狙って投稿しておきましたが、審査委員は殆ど法律や経済などの文系のものばかりで何処まで理解できるのか解りません。最後は米国辺りの外国から注目されることを期待するばかりです。恐らく、その折には、本でも示唆しているように、セメント全く使用しない古代ピラミッドの技術の復活となるでしょう。その際には日本は莫大な特許使用料を払って実行するしかないでしょう。私も幾つか特許を取っておくことを考えましたが、むしろ国民性の変革に向けて、高みの見物を決め込むことが賢明であり、国家的損失も仕方ないものと思いました。

 なお、世界の原油資本が、今回の国家プロジェクト案を潰す懸念ですが、これは原油高騰化や資源枯渇化で、彼らにとっても死活問題でありますから、これをしたら彼らにも天罰が下るように思います。例えば、日本でも経済産業省や石油業界が省エネを邪魔するとしたら国賊ものでしょうし、アスベスト問題が世界で関心を呼んでいるのに、アスベストの生産業者が邪魔するとしたら、世間から糾弾され、天罰を食らっていくのは必至でしょう。天罰と言えば、私を無視してアイデアのみを盗用して実行しても、天罰を食らっていくものと思いますが、恐らく、万一表面化しても、政府はメンツを潰さないためにもそのような態度に出ることでしょうが、著書の最後でも「要注意」と警告を発しているものです。それ故にこそ、次の本が生きてくるのであり、最後には天罰により、邪悪な想念が一掃できて、国家社会の改革に繋げていくことが可能になるものと思います。

 ところで進化論ですが、私は火山から放出されている未知の謎の放射線・素粒子が、高エネルギー粒子や宇宙線、太陽光線などと同じように、生物の遺伝子や染色体に大きく影響を与えたことを示唆したように覚えております。著作では紹介しておりませんが、平成4年に米国フロリダ半島で上半身が女性の人間で下半身が魚が発見された新聞記事もあります。その後にもタイでも、今度は上半身が魚で下半身が女性の身体を有したものが発見されております。アカデミズムの世界では殆ど無視しておりますが、決して荒唐無稽の作為的なものではなく、真実であり事実であったようです。恐らく、エルニーニョなどの海水の温度変化で表面化したものであり、人類の進化の過程で生じたものでしょう。それが偶々深海で生存し続けたと言うことかと思います。既に、デンマークの首都のコペンハーゲン埠頭でも彫刻として展示しているように、伝説となっている人魚が現実に存在したというものです。なお、外見の肉体も突然変異し進化しますが、霊魂も輪廻転生の下に進化します。目下、聖書の神は宇宙人とか、一部の悪魔崇拝宗教の奥の院の連中は思考や行動が爬虫類的人間だとか指摘されておりますが、正に、畜生死霊魂の転生・憑依現象に他なりません。三冊目の著作で霊魂や神仏、正しい信仰などを紹介するものです。

 なお、ご指摘のように、環境に適応したものだけが残存していくこともあり、また、環境に適応するように、尻尾や蹄など、様々な形態が変化していくこともあります。身近の例で言えば、冷える夕方の時間帯や寒い季節や、北の地方では、ヒゲや毛髪の伸びが活発であったり、身長にも変化があったり、メラニン色素にも大きく影響を及ぼすことでも解ることです。ただ、地球人類史の中で、宇宙から生命の源を運んできたのは彗星であり、それが地球上で豊富な水によって育まれ、放射線や素粒子による照射などで突然変異を繰り返してきたように思います。今でも朝露の発生原理により、宇宙から豊富な水がもたらされておりますが、原油の宇宙由来と共に、誰も指摘し解明できていないものです。

 目下、米国では進化論を巡って、人間は神が作ったものであるとか、ダーウィンの進化論の何れが正解かで、国論が大きく分裂しており、時には殺人事件にまで発展しておりますが、正しい霊魂観が示され理解されていかない限り、精神と心、霊と魂、何時から魂魄が宿るのかなどと、堕胎の是非や、安楽死、植物人間の真相などを巡っても容易には解決できないように思います。これは三冊目の著作で、宗教的な考察、健全な家庭の在り方の点からも、ある程度、解明を指摘紹介するものです。

 最初の著作の中には、実に、世界的大発見に値する仮説が豊富に含まれているものと自負しておりますが、果たして一体誰が気付き評価し採用していくのか全く解りません。恐らく、普通の感覚から言えば、歴史の闇の中に埋没していき、後世の歴史家が解明することでしょうが、今や、2012年の太陽系全体が宇宙の強力な電磁波帯に突入することで、地球の滅亡がまことしやかに指摘されており、他方でアカデミズムの世界は全く無視しております。恐らく、このままでは人類は再度、石器時代を迎える可能性もありますが、他方で、次第に、人々が知らずの内に意識の変革が迫られるように、神聖で光輝な波徴が充満し蔓延し伝播していくように思います。

 ところで、イルミナティ・フリーメーソンの連中がピラミッドに拘り、それをドル紙幣の裏側にも印刷して崇拝しているのも、実にピラミッドの建設に魔力が行使されたからに他なりません。ピラミッドの解明も、著作でも指摘するように、単なる歴史考古学的分析から、砂漠の砂、即ち火山灰を使った人工火山灰コンクリートであることに至り、更にはそれをも大きく超えて、実に魔力が行使されたことまで解明していかなければ真の解明とはならないでしょう。イルミナティの連中はピラミッド建設の魔力を知っている故に、今でも悪魔崇拝、魔力崇拝を数千年間に亘って実行しているものです。

 しかし、この悪魔崇拝の邪念波動も、既に2000年以降は大きく破綻してきており、2005年秋から2006年に掛けて、不思議と今回の一連の出版の時期を契機に、世界の虚構体制も崩壊し始めているように思います。これまでは、彼らが計画的に仕掛けた戦争や革命、混乱でしたが、今後は神仕組みによる天下の大掃除であり、邪悪な連中も制御不能に陥って巻き込まれて破綻していくように思います。一連の本は正に、国家を変え、国民性を糾弾し、世界を変え、実に、数千年来の国内外の常識、通説、慣習、意識を根本的に問題提起し、併せて歴史的な大変革を志向するものです。今後は5〜7年間を掛けて、歴史的世界的崩壊と創造を経て、日本から世界的改革の気運が生じてくることでしょう。

 なお、先の「新日本列島大改造の実践に向けて」の本は、日本人の大多数の国民性では殆ど灯台下暗しで理解できずに無視していくことでしょうが、私は世界が注目することを期待するものです。恐らく、世界中何処を探しても存在しない人類未知の謎のカバー写真から、世界のノーベル賞クラスの研究者が気付くことでしょうし、また気付かなければ、今回、著作で提案した国家的プロジェクト自体も気付くこともなく、世界は資源・エネルギー問題で大きく行き詰まっていくことでしょう。他にも、画期的な提案が多く含まれておりますが、日本人の猜疑心旺盛な国民性では理解も評価も不可能でしょう。他方で、この著作から、世界の霊感者が不思議な波動を感じて来ることでしょう。既に国内でも、ある方が某宗教家に本を見せたところ、霊的に何かを感じ始めたようです。

 私の一連の本は、実に失われたムー大陸などの超古代文明における魔力崇拝の実態や崩壊の真相、古代ピラミッドの建設技術や材料、手段の解明、そして来るべき地球規模での天変地異の回避に向けて、何らかの示唆を提供するものです。恐らく、カバー写真の解明が出来た暁にこそ、火山灰の不思議な謎を始め、巨石文明の謎、地球や人類の進化や、桜島大根の巨大さやガラパゴス諸島の不可解な謎の解明も可能になるものでしょう。

 なお、今後書くべき本は、司法や行政、立法などの具体的な法制度の整備に関するものとなるでしょうが、既に資金的にも限界があり、また、これは然るべき社会的地位にあって実行可能でない限り、著作で書いていくものではないように思います。そうでないと、多くの出版物と同じように、単なる評論で終わってしまい、何ら社会的改革へのインパクトにも成り得ません。即ち、無関心の前に幾ら本格的な解決策を公開しても無意味だと言うことです。今回の本は偶々緊急性があって紹介したものですが、それでも全く無関心の状況でしかありません。そして第2冊目の国民性と日本語との関連性に関しても、1,3冊目の本を無視する国民性を糾弾し、また誰も指摘していないこと故に、後世の歴史家が先見性や洞察性を解明できるように、記録に残し指摘しておくものでしかありません。
 

閉鎖的な島国役人根性の国民性

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 5月11日(木)22時08分2秒
   今や、元寇の役、戦国時代、幕末動乱、日露戦争、そして大東亜戦争時と並んで過去の歴史の中でも最大の難問山積の国難に直面しつつあるようです。目下、戦後のあらゆるシステムが制度疲労を起こして、適切な解決策も見出せない中で迷走し、また改革の理念や目的、意義なども曖昧なままに、国民的理解を得られずに、次第に破局ないし崩壊に向かっているように懸念するものです。そもそも、現在の危機が目に見えにくいこともあって、現状に対する正しい認識に乏しく、現状分析能力から正しい解決策に至る思考や行動に大きく問題があるように思います。国家自体にも国家戦略的な危機管理がなく、国民全体にも危機感が全くなく、国家主権の喪失すら感じられるのが最大の危機でもあります。

 然るに、今時の難局に対して、一体何が大きな障害として根底に横たわっており、何を排除し改訂していかねばならないのでしょうか。思うに、崇高で立派で真正な法制度を確立するのが大切なのは当然ですが、現在の破綻する寸前の状況にまで追い込んだ最大の元凶である原因を考え、また改革を実行するために最大の障害となっている要因にメスを入れてみることが大切ではないでしょうか。そして、幾多の法制度の改革とは言いながら、それらを正しく解釈し運用していくには、やはり、正しい心魂で実施していくのは当然であり、そうなると、根底には国民や関係者の心理や行動が大きく関係しており、どうしても意識の変革こそ最大の要因ともなってくるように思います。

 さてズバリ申せば、今時の変革の最大の対象こそ、実に国民意識であり、この最大の背景や要因こそ、既に多くの有識者から指摘されているように、官僚の意識構造であり、俗に言う、役人根性であり島国根性であろうと思います。官僚社会は、焦らず、慌てず、争わず、また遅れず、休まず、急がず(働かず)と揶揄されるように、曖昧模糊とした無責任体質、調和を重視し批判を封じる集団主義、無節操・無定見な変節漢、冷淡で無慈悲で無関心な非人間的社会、猜疑心旺盛で近視眼的、形式を重視し個性排除の陰鬱な社会、出る杭は打て・沈黙は金・長いものには巻かれろの自己主張させない閉鎖的な社会、内向き・後ろ向きで縮みの消極性、足の引っ張り合いで嫉妬や妬みの充満する葛藤社会、裏切り・密告の横行する社会、一般常識と乖離し建前と本音を巧妙に使い分ける社会、頑迷固陋の教条主義、換骨奪胎や骨抜き・誤魔化し・二枚舌で詭弁を弄する狡猾性、全てを曖昧に相対化する意識、実質・内容よりも形式・外見・メンツ・世間体・序列に囚われ拘る社会、虚栄・虚飾に満ちた形式主義で本質を読めない近視眼的島国根性、創造や挑戦よりも先例・前例主義・安定志向・減点主義の事勿れ主義、難問回避で問題解決先送りの体質などが蔓延しているようです。もっとも、愚直性や硬直性、くそ丁寧、ばか丁寧、くそ真面目、ばか真面目などばかりでもなく、健気で律儀、勤勉性、実直性を有しているという二重性もあります。

 こうした大方の非常識極まる役人根性に共通するものは、大した改革志向はなく、現状維持の保守主義であり、既得権益の維持であり、閉鎖的な自分中心の利益追求であり、それらが天下り優先の政策を実施しているものでしょう。これは米国ならば、一番優秀な者はチャレンジ精神を発揮して自らベンチャービジネスを起こし、その次は他のベンチャー企業や中小企業に参加し、そして大企業に行き、最後に官僚になるというものです。然るに、日本では全く逆であり、ペーパーテストと点取り学業の優秀な者ほど、最も安定した官僚の世界に行き、安定した政策を担当し、三権分立でありながら、自ら法案を作成して国会に上程し、往々にして、交換人事などで裁判にも影響を及ぼしていく傾向があります。今や官僚的意識構造は、二世、三世議員や官僚出身者の増加を反映して、政治の世界にも及んで政治の官僚化をもたらしており、また民間世界でも官僚以上に官僚的世界が蔓延しているのが現実でありましょう。

 しかし、この官僚的気質の役人根性なるものこそ、実に本質的には日本人全体に共通する国民性そのものであります。たまたま、官僚の世界でこそ、顕著に特性が表れているというだけであり、誰が役人になっても、即ち、同じような権威や権力を行使する境遇に至れば、同じような気質を発揮するものであります。実に国民社会全体に、甘えや集り、もたれ合い、馴れ合い、つるみ合いのまあまあ、なあなあの野合・談合社会を形成し、個性を確立できずに排除否定する集団主義を生産し、批判や自己主張を封じる無責任の横行する似非調和主義、挑戦や競争を本質的に嫌悪し排除する現状固定主義、そして嫉妬や妬みによって出る杭を打つ画一的で横並び意識、個性尊重の創造精神よりも無節操で無定見な模倣・盗用社会の似非活力ある社会を蔓延させていると言えるでしょう。即ち、今や国民全体が頑迷固陋に現状維持の既得権益者であり、改革の抵抗勢力となっていると言えるでしょう。今や歴史的難局に際して、種々の法制度の改革の根底に存在する要因こそ、実に歴史的に育成されてきた国民性の大変革に他ならないと指摘する所以でもあります。

 かつてソ連崩壊に伴いソ連の初代大統領になったゴルバチョフ氏に、日本人記者が「ソ連では共産主義が失敗しましたね」と聞いた折に、彼は「確かにソ連では共産主義は失敗したが、世界で唯一、共産主義が成功した国がある、それは日本だ」と言ったことが伝えられているように、日本は実に創造や起業、競争、挑戦を原則とした資本主義と言うよりも、株式の相互保有の面を考えても、資本主義という仮面を被って、官僚主導の画一的平等主義を追求し、護送船団方式を実践してきた共産主義国家であると言えるでしょう。

 戦後、米国占領軍司令部の最高指導者マッカーサーは、財閥解体、軍国主義解体の大改革を実施しましたが、幸か不幸か、官僚機構だけは、占領政策の推進のために利用し、そのまま温存してしまったようです。この官僚機構は戦時体制であり、国家社会主義体制でもあり、高度経済成長には、集団主義、護送船団方式、キャッチアップ方式、画一的横並びの競争主義である程度貢献したものですが、既に一九九〇年のバブル崩壊以後、長引く経済の低迷と共に、一向に進展しない状況に対し、これまでの体制が制度疲労をきたし大きく行き詰まってきたようです。即ち、外国に手本があり、国民が必死になって頑張ってきた内は、官僚機構はただ方針だけ示して、その路線に乗って肥大化していけばよかったのですが、今や経済が行き詰まって、年金も税収も破綻しつつある中で、意識変革も方向転換も出来ずに、次第に無責任、無関心、無感動、無気力が蔓延し、幾多の欠陥が露呈してきたようです。実に従来のやり方が通用しなくなって新たな方途を模索していかねばならないのに、過去のあまりにも官僚に依存した成功体験が、改革の最大の障害になってきたようです。そもそも一体何が崩壊の原因であり、また真の解決の方策であるのか、全く盲目になっているものであり、実に旧ソ連の崩壊前夜と同じ現象に陥ってきたようです。

 既に指摘したように、現下の危機に際して、改革を大きく阻んで亡国に導こうとしている最大のガンや寄生虫は、実に現状維持に固執する役人根性に代表される国民性に他ならず、この役人根性や官僚体制を根底から改造することでしか、日本の歴史的再生は有り得ないように思います。今やこの官僚体制、役人根性は甘えや集りとなって国民全体に蔓延して、既得権益擁護の島国根性として、国民全体の意識変革が迫られているように思います。それと合わせて、歴史的大改革を実施するリーダーの登場が必須でありましょうが、官僚任せの単なる丸投げ、投げやり、やりっ放しではなく、崇高な指針・理念と、展望、意志、情熱の下に、自らリーダーシップを発揮し、国民を指導する身命を賭した指導者の登場が求められていると言えるでしょう。それには、出る杭は打つといった嫉妬や妬みの強い日本人の国民性をも大きく是正していく必要が出てきたようです。何故なら、何でも形式やしきたり、そして先例、前例、先入観や固定観念、既成概念に囚われて行き易い日本人の国民性では、真の指導者を選択すら出来ないものと思います。正に混迷し破綻する日本の現状に対して、根底から改革をしていかねばならない最大の課題こそ、この嫉妬や妬みが充満し、形式に囚われ閉鎖的な国民性の変革にあると言えるでしょう。実に国民性の変革と、崇高な指導理念による指導者の登場とは正に一体であろうと思います。

 歴史の転換における障壁として、幕末においては、封建的身分体制に固執した武士階級の頑迷な思考が、近代化を阻んでいたとも言え、大東亜戦争時においては、硬直化した軍人思考や行動が国際情勢の把握に関して、大局的視野や柔軟性に欠けていたことは否定できません。そして、今時の改革を阻んでいる存在こそ、無責任、先送りの官僚システムであり、役人根性であり、閉鎖的で近視眼的な島国根性に他ならないものと言えるでしょう。この島国根性という根本的な意識は、数百年前から、何ら変化していないものであり、それ故に、今時の改革は実に歴史上最大のものとなっていかざるを得ないと思います。

 なお、大局的視野とか国際感覚とか言うのは、何も英語を話しているから国際感覚が豊かで、外国的思考が理解できるという単純なものではなく、囚われない世界的(グローバルな)視野で発想が展開できるかという、正に独創的、創造的で洞察力や先見性に富んだ柔軟で気宇壮大な思考が可能かどうかに係っているものでしょう。何も英語を話せなくても、外国人の気持ちが理解できたり、国際感覚が豊かな者もいるし、反対に外国語が話せても、思考は悪い意味での旧来の日本人的島国根性、役人根性に凝り固まった発想しか出来ない者もいるのも確かでしょう。要は、従来の日本語感覚では大局的視野や国際感覚が切り開かれていけないことが多いものと思います。
 

形式を重視し猜疑心旺盛で近視眼的な日本人

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 5月11日(木)21時54分47秒
   世界的にも複雑な日本の敬語は、こまやかで奥ゆかしい人間関係を規律してきた長所もありますが、今やあまりにもその複雑さ故に国際常識を大きく逸脱しているようです。敬語の「(ら)れる」には、尊敬、謙譲、可能、自発などの使用様態の区別があり、日本人の大多数が、相手の身分や境遇に応じて厳密に使い分けられなくて混乱しているようです。その結果、不必要に神経をすり減らしたり、人間関係に気まずい思いをさせている面も多発しているようです。繊細な言い回しの敬語を確実に正確に活用できれば申し分ないのですが、今や専門家ですら、敬語を厳密に理解して充分に使いこなせていないようです。国内だけの対応でしかも身分関係を重視してきた閉鎖的な社会であれば、敬語も正しい礼儀、道徳、倫理の規範とも結びついて、国民精神の涵養にも大きく貢献してきたものでしょう。今やその敬語の活用が乱れてきており、歪曲し曲解した道徳観すら横行しており、健全な人間関係の形成にも多大な支障を来たしているのは否めません。また日本人の馬鹿丁寧で曖昧情緒的な国民性の故か、何にでも安易に「お」を付ける習慣が蔓延しているようです。おビール、おトイレぐらいは、お茶やお酒、お車などからまだ自然だとしても、やおや、オートバイなどに無節操に「お」を付けたらどうなるのでしょう。

 目下、日本語における敬語をしっかりと教育することが大切だとは言われますが、今や国際化の下に、逆に日本人自身が非常識に成り下がっていく傾向もあります。例えば、中国に進出した現地の某日系企業の工場支配人が、中国人労働者から、「あなたは」と言われて「カーッ」と頭に来て解雇してしまったという話もあります。世界では相手を言うのに「YOU」で済むのに対し、日本語では、自分や相手を指すのに様々な表現があり、それぞれ敬語の役割も果たしているからです。自分自身でも「私、俺、おいら、自分」、相手でも「貴方様、あなた、あんた、お前、貴様」など実に豊富なものでしょう。一つの言葉に一つの意味しかない外国語に対し、日本語には一つの言葉に複数の意味があって奥が深いとは言いますが、一つの対象に意味内容が異なる複数の言葉があり、相手や状況に応じて使い分けるなど、非常に使い勝手が困難で複雑怪奇に出来ているようです。例えば、日本人社会では、始めに相手に年齢を尋ねることが多いのですが、これによって、相手が年下ならば、「お前、君」を用い、年上ならば「貴方、先輩」等の使い方を区別していくようです。

 この敬語に関しては、例えば、社員が社長と対話する場合でも、社長だけと対話する場合、社長の家族が同席する場合、得意先の方が同席する場合、他の従業員が同席する場合などの、様々な状況によって、社長に対する敬語や呼び方が異なるほどの神経を磨り減らされる傾向があるようです。具体的には、社長で通用する場合もあれば、社長さんと言ったり、場合によっては個人名で言ったりする場合があるようで、実にその場の雰囲気や状況に対して、適宜使い分けていかねばならないようです。これではとても外国人には理解や習得が困難なようです。
 なお、次に、先の寺嶋氏の見解も参考までに紹介しておきます。

内のこと
  日本語には、階称(言葉遣い)がある。「上と見るか、下と見るか」の判断が、人間の序列をつくる。横並びの序列判定に加わることのできる人は「内の人」である。出来ない人は「よそ者」である。日本人社会は、序列でできている。その中での個人的な「言いたいこと」は、日本語では処理に困ることが多い。それは、発言が理性判断に基づいていないからである。盲目の判断では、議論はできないからである。だから、言いたいことがあっても我慢しなければならない。不自由を常と思えば不足なし、である。
  英米人の場合は、非理性・理不尽を「シェイム・オン・ユー」(Shame on you!) の一語で切り落とす。だから、議論が可能になる。

 ところで、形式を重んじるあまりに、抑圧的で憂鬱な社会を形成し、その結果、日本人の心理と社会の空気にも反映しているものがあります。言語が国民性を反映していると言うことの事例として、日本語に無い外来語が多くあることからも、国民性の相違が容易に想像できます。例えば、誰も気付いておりませんが、残念ながら「ユーモア」に相当する適切な日本語はありません。外人が楽しそうにユーモラスに談笑している風景をよく見かけますが、他方で、日本人同士の会話には、何故かもの悲しい空虚な嫉妬や妬みの強烈な、悪い冗談ぐらいしか垣間見ることができないのも当方の錯覚でしょうか。

 英語の「ジョーク」に相当する日本語は「冗談」「冗句」でありますが、「ユーモア」に相当する日本語は「川柳」や「風流」であろうと思われますが、これは書き物などの一人の世界にはあっても、残念ながら双方向の会話の中には、全く「ユーモア」の感覚が見られないのでは無いでしょうか。これは日本人社会には底抜けに明るい笑いの「ユーモア」の感覚がなく、実に日本人の心理が曖昧模糊の中にも調和を強要するあまり、陰湿で暗い抑圧した足の引っ張り合いの社会を醸成しているものであり、嫉妬や妬みによる足の引っ張り合いで鬱屈し、抑圧され、圧迫されているとも言えるでしょう。

 そもそもジョークとユーモアの相違は誰も解明しておりませんが、当方の思うところ、前者のジョークが、他人をコケにして当該他人以外の皆を笑わせる悪質、排他、嫉妬に満ちたものであるのに対し、後者のユーモアは、自分をコケにして皆を笑わせるものであり、誰も嫉妬や妬みを感じないものでありましょう。最近は日本人社会でも、欧米流のユーモアを若干垣間見ることができるようにはなってきておりますが、往々にしてユーモアを発すれば、それをネタに悪意のジョークで茶化されることも多いようです。

 ところで日本人には、明らかに米国などの外国人と比べて、優柔不断の横並び思考から来る猜疑心や懐疑心、嫌疑心が旺盛のようです。大局的に、総合的に、また相対的に事物を把握し、推察するような能力には著しく欠如しているようです。換言すれば木を見て森を見ない国民性であり、個の自立を排斥した集団性と付和雷同型の国民性と言えるでしょうか。即ち、形式や儀式に囚われていきやすく、本質に迫れない性質を有し、真の正しい評価や理解、判断に大きく後れを取っていき易い傾向を有しているものと思います。かつての優れた日本人特有の感性や情緒も崩壊破綻して、今や無感動や無関心、無気力の極致に到達しているように思われます。

 この無感動や無関心、懐疑心や猜疑心などは、ビジネスの世界でも言えるようです。例えば、ビジネスの分野でも、米国などの外国人は、ダイレクトメールのパンフレットなどで、技術や製品に関心や興味を示して評価し、即座に購入や契約に至ることが多いようですが、日本人社会では、猜疑心旺盛で、製品の善し悪しよりも、相手の担当者の性格をよく知っていない限り、安心して判断ができないようです。また個人の能力や業績を評価するに際しても、経歴や社会的地位、財産などの形式的、姿形的な判断が優先していく場合があるようです。人物評価に際しても、「出る杭は打つ」などの格言は、実に嫉妬や妬みに囚われた国民性の反映でありましょう。米国などは、「出る杭を尊重する」という傾向が勝っていると言えるでしょう。

 表面的な個性や感情に対しても、客観的に才能や能力を正しく評価できずに、生意気だとか協調性がないとかで嫌悪し排斥したり、また誰々と一緒に食事やゴルフをしたから、年賀状をくれたからとか、同窓や同郷であるからとか、世話になったからとかの温情や情実を優先させていくために、真の意義や価値を発見できずに、真の評価にも目覚めにくい国民性を形成しているのも確かでしょう。ノーベル賞やスポーツを始め、多くの学術や技能などの分野でも、日本人社会よりも外国人社会で賞賛され評価されて、その後に仕方なく日本人が評価し始めるケースも多発しているようです。これは崇高な理念や教義に関する評価や理解、判断にも、猜疑的で懐疑的な国民性が大きく影響を及ぼしていることの示唆にもなるものでしょう。
 

無節操・無定見で柔軟・寛容な国民性

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 5月 7日(日)23時03分17秒
編集済
   日本の神社・仏閣の境内を見ると、実に、誰の何某、何万円寄付の看板やお札が林立しております。せっかくの善行も、打算や売名、利欲で帳消しになってしまうものと思いますが、何も感じないところに、どうしようもない冒涜行為、罰当たり的な心象を感じるものです。この現象を一体如何に考えたらよいのでしょうか。まさか、これを日本独自の崇高で大らかな文化や伝統で慣習とでも言うのでしょうか。こんな宗教や信仰観は、現世御利益であり、神仏を愚弄するものでしかありません。恐らく、こんな欲呆け、売名行為は、世界のあらゆる教会や、宗教的、信仰上の神聖な場所では皆無ではないかと思います。これも、思うに、聖なるものと俗なるものとの区別も付かない、曖昧情緒性の無節操で無責任の為せるものであろうと思います。全く、信仰観や宗教観など無きに等しい国民性と言えるでしょう。

 この曖昧情緒性は、また無思想で無定見な、そして近視眼的な国民性でもありますが、これは逆に見れば、明確な行動指針や基準、原理・原則が存在しないために、何とでも変容し変質する柔軟な国民性でもあります。要するに、何でも有りの急変するしなやかさ、柔らかさを有し、びっくりするほどの極端から極端へと暴走し急変する柔軟な性質を有するものです。実に無節操と柔軟性とは紙一重であり、表裏一体であるとも言えるでしょう。この柔軟性ないし無節操性は、日本人社会においては、極めて日常的に見られるものです。例えば、よく指摘されるように、日本人はキリスト教徒でもないのに、年末にはクリスマスイブを祝ったり、そして正月には神社に参拝し、その後に仏式で墓参りを行うなど、ごく当たり前のように実施できるほど、無節操さと柔軟性とが同居しているものです。また教会で結婚式を挙げたり、その後には仏式で法事を行うなど、何の抵抗も躊躇もなく、至極当然のように実施しているものです。正に日本人の無節操性と柔軟性の典型的な事例と言えるでしょう。

 またこの変節的柔軟性は、過去の歴史においても頻繁に登場するものです。例えば、幕末時の頑なな尊皇攘夷から、倒幕・開国へと急激に流れが変わって方向転換し、近代化を成し遂げたのも、柔軟性の表れでしょう。そのあまりの事態の急変に対して、朝廷を守護していた会津藩が急転直下、朝敵にさせられるなどの悲劇もありました。また、大東亜戦争時において、マスコミに乗せられて、鬼畜米英などと勇ましく戦闘状態にあった国民意識が、戦後あっという間に、マッカーサー元帥を救世主のように崇め奉っていく国民性は、柔軟性を通り越して無節操の誹りすら受けるものです。

 そして日本の歴史においては、さほどの革命的政変や大虐殺の報復もなかったのも、天下の大勢や空気、流れを読む風見鶏にも通じる、要領の良い柔軟性や無節操性のたまものですが、これはある意味では、裏切りや密告を平気でやり、何ら恥とも思わない国民性にも転じるものであります。戦国時代の関ヶ原の合戦においても、加藤清正や福島正則などの豊臣恩顧の武将が数多く裏切って徳川家康に加担したり、合戦の最中でも、小早川の優柔不断による裏切りや、島津の日和見的な様子眺め、毛利の消極的な優柔不断など、実に柔軟な対応をしていることが窺えます。

 かつてルース・ベネディクト女史は、『菊と刀』の中で、米国人の罪の文化と対比させて、日本人は恥の文化だと指摘しましたが、これはあまりにも、封建社会における武士の切腹や、潔く死をもって精算するという自殺の多い国民性を過大評価して、汚名や屈辱を恥と思う責任感旺盛な日本人の心情を過大に評価して美化したものと思います。確かにそういう側面もあるでしょうが、必ずしも真実の核心を突いたものとは言えないと思います。無節操などの裏切りを恥と感じるならば、潔く自決したりすれば良いものを、何ら恥じることもなく、安易に敵に寝返ったり、密約を交わしたり、談合に明け暮れている場合もあるように思います。それに、切腹は自ら責任をとって、自ら選択した面もありますが、他方で、一方的に責任を取らされた面もあり、一概に恥じた結果だと認めるわけにはいかないようです。これは現在の政治でも、堂々と議論することなく、相手の呑む適当な条件を探り出して根回しする行動や、また責任を他になすり付けていくような狡猾な面にも、恥も外聞もない無節操な面が表れているように思います。

 そして柔軟性は、特別に排除否定するものではなく、共存、共栄を図る寛大性や寛容性にも通じるものであり、融合や調和、共存を図っていく姿勢にも現れております。例えば、中国より、漢字が伝来した時にも、一律に排除するのではなく、音読みと訓読みの両方に分けて取り込むなど、実に柔軟性の最たるものと言えるでしょう。また、仏教渡来に際しても、最初のうちは摩擦もありましたが、長い歴史の過程では、神道と仏道は神仏融合で共存しており、日本は柔軟に対処してきたようです。戦国時代の鉄砲にしても、実に迅速果敢に、これは換言すれば、長所を即座に判断して取り込んで柔軟に対応してきたものでしょう。幕末明治においても、西洋文明を漢字やカタカナを駆使して翻訳しながら、近代化を図ってきたのも柔軟な対応として評価できるものでしょう。ここは、中国や朝鮮民族が西洋文明に対する関心の度合いが極めて小さくて、その、あまりの硬直性により近代化に大きく出遅れたことと対比できるでしょう。

 なお、仏教の受け入れで従来の日本古来の神道との共存、またキリスト教への関心や明治における西洋文明との同居に対して、いずれも大した抵抗もないのは、そして大東亜戦争終了後でも、占領軍の政策をさほどの反発もなく受け入れていったのも、無節操な面もさることながら、柔軟性と併せて寛容性にも通じているものでしょう。この寛容性は、実に原理や原則のない、時には信念も理念もない、何でも受け入れる柔軟な無節操さと、また混乱性や崩壊性と表裏一体であると言えるでしょう。

 なお、日本には「村八分」という言葉や風習があります。これは多くの外国のように、完全に相手を敵とみなして無視し排除し抹殺すると言うものではなく、火事と葬式だけは、村人総出で協力するというものであります。即ち、村八分の二分とは火事と葬式のことであり、これだけは、どんなに憎い相手でも、わだかまりを捨てて寛大に対応するという温情的な余地を残しているものです。この寛大性の反映である温情主義は、過激な弱肉強食を嫌悪し、落ちこぼれを冷たく排除し切り捨てることなく、皆で救済するような相互のもたれ合いの集団主義を生み出してきているようにも思います。

 ところで、皮肉にも、情緒的で無節操な国民性の欠点の改革に際しては、その裏返しでもある柔軟性という長所が最大限に発揮されて、大胆で破天荒な行動へと繋がっていくことを期待したいものです。これまでの日本の歴史的にも、幾多の難局を打破してきたのも、この柔軟性に他ならなかったものと思います。また国民の意志を一つにして、一蓮托生の運命共同体の意識でもって、国民総決起により改革を実践していくことにも、寛容な集団主義を発揮していけることを祈念するものです。即ち、欠点を長所に転換し得る国民性こそ日本人の柔軟性であり、正に、日本から数千年来の歴史的宗教改革も発信できる柔軟な可能性を秘めているように思います。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

曖昧情緒な国民性

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 5月 7日(日)23時02分9秒
編集済
   ところで、中山治氏は『無節操な日本人』の中で、時代を超えて永続して共通する日本人の国民性は、実に 「情緒原理主義」であり、これは西洋や中国の「行動原理主義」と対置されるものとしております。氏によれば、西洋や中国人の行動原理主義に対して、実に日本人の国民性を、歴史的にも終始一貫して何ら変わりのない共通的なものとして、情緒原理主義が貫徹されていると分析しているものです。この見解は当方とも合致するものですが、氏は、その原因を、ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教などの一神教と比べて、また普遍的理念を有した仏教とも相違して、なんと日本独自の神道の呪術性と情緒性に求めているものですが、これはかなり暴論であり、誤解と偏見に満ちたものだと思います。

 何故ならば、国民性の曖昧情緒性から来る社会の迷走・堕落は、特に現在が著しいものでありますが、現在、多くの新興宗教が氾濫・蔓延し、現世御利益宗教が全盛であるとはいえ、特に、神道の呪術性、情緒性が氾濫しているとは思えないからです。神道を通説である八百万の神を信じるアニミズムの未開の地の野蛮な原始的宗教であるとするならば、そうした見解になるものかと落胆するものですが、真の神道はそんな低俗・低次元のものではなく、「清明正直」と言われるように、明鏡止水の清く明るく正しく真っ直ぐな心魂の形成であり、むしろ日本人の自他を区別しないで身命を賭して行動する大胆不敵な正義感・大和魂の根源には、澄み切った清々しい清らかな心魂が横たわっているように思います。それに、八百万の神こそは、輪廻転生界に徘徊する神々のことを言っているものであり、八百万の神々に感謝するのも真理ではあろうと思いますが、真の神道は、更に輪廻転生界を超越した宙天の玉座に鎮座される創造主であられる真の神を崇拝するものであろうと思います。その意味では、真の神道こそは、むしろ普遍的で世界的で、宗教を超えた世界統体的な宗道である一神教とも言えるものでしょう。換言すれば、輪廻転生界に徘徊する八百万の神を崇拝する多神教も、輪廻転生界を超えた超絶無限の大宇宙の極限に存在する真の神を崇拝する一神教も、どちらも正解であろうと思います。ただ、真の神仏はこの世の自然界には存在せず降誕することもなく、幻視、幻覚、幻聴によって感得されるものでもなく、また人間と対話することもないものと思われ、輪廻転生界に漂流し人間と対話し命令する神を、一神教の対象にすることが根本理念として誤っていると思われます。

 正に当方の恩師であられた聖心先生が指摘するように、日本語自体の情緒性、不明瞭性、曖昧性に原因があるものでしょう。本来の日本人の国民性が、長い歴史を通じて政策的なものや日本語の変遷により、現在のように形成されてきた面が濃厚に思います。今は神道の関係を差し置いて、日本人の国民性の情緒性に関して見解を述べてみようと思います。

 この情緒性こそは、明確な理念や信念や信条、思想、基準、規範によって行動するものではなく、実に心理も周囲の空気や流れに感染されやすく、情緒的に行動するものであります。これは気分や雰囲気に支配されやすく、付和雷同し右往左往して迷走して行きやすいものであります。そして曖昧で無節操で無責任になり、時には思考停止や支離滅裂に陥って、葛藤やパニックを生み出して暴走することもあるものと言えるでしょう。

 ところで、日本人の情緒性は、無益な争いや対立を回避し、葛藤を回避する国民性でありますが、これこそ、和を尊ぶ余りに、争いを回避し封印し隠蔽し、喧嘩両成敗の体質を形成してきたものであり、自己主張を封印された結果として、極端な葛藤社会を背後に形成し、それを回避するために、異常に相手の心理や周囲の空気、雰囲気、流れを読み取ろうとする反動として、神経過敏な情緒性が錬磨され、葛藤性を充満させてきたようにも思います。勿論、日本語の活用においても、そのように誘導されてきたか、本質的に、そのような情緒的感覚、感性を磨くように仕向けられてきたとも言え、実に、両者の間には因果関係や相関関係があるように思います。

 何処までも情緒的で曖昧にする感性では、真摯な反省も総括も懺悔も起きてこないし、因果関係に鋭く迫る探求心や真剣さもなく、壮大な健忘症の中に埋没し、無節操な変節漢を生み出していくように思います。また中心や核心が欠如し、確たる信念もなく、思考や行動に空洞化をもたらし、周辺をふらふらと放浪し、彷徨い、漂流していく迷走状態を生み出していきやすいものです。そして、大局的な視野に欠け、対立概念の把握に乏しい故に、真の中庸・中道にも理解がないように思います。一見して中庸の精神があると錯覚するのは、単なる情緒的な曖昧さでしかなく、真の崇高な理念や指導者への理解や評価にも大きく欠如することになるものと思います。さらに葛藤回避であるからこそ、批判や攻撃を排除し、無理に和を維持することになるものでしょう。

 曖昧情緒性は、意志も判断も全てが曖昧であるから、日本人独特の言った言わないの二枚舌を蔓延させております。言った、聞いていないというのも、当事者にとっては、何れも正解である場合が多いようです。それは「そんな風に言った覚えはない」「そんな風には聞いた覚えはない」「そのような意味(つもり)で言った覚えはない」ということで、曖昧な情緒的感性によるもので、明確な基準がないと言うことです。そして何処までも曖昧性故に、対応も無節操に変化し、人間関係も簡単に乱れ、崩壊していくものです。

 ところで、最近流行しているオレオレ詐欺や振り込み詐欺に引っ掛かるのも日本人に多く、欧米人ではまずは考えられないようです。実にこの背景には、曖昧で情緒的な日本語の性格により、即物的な情報だけが伝達可能となって、日本人は即物的思考しかできないようになっているものと思われます。そして日本人の曖昧情緒的な感性が、近視眼的で判断能力や批判精神を欠如した思考停止を生み出し、容易に詐欺に引っ掛かる純真無垢のナイーブな幼稚性をもたらしているものと思います。

 また、逆に日本語の曖昧模糊の性質が良いのだという見解がありますが、確かに日本語の曖昧さが効を奏してきた経緯もありましたが、今日の複雑な外交や経済情勢を考えるとマイナス面が大きく、大変理解しがたいことであり、国際常識から言っても笑止千万であり牽強付会の論理でありましょう。この曖昧さは世界のあらゆる民族にも少なからずありますが、殆どは一時的なものであり、日本語のように、根本的な性質ではないように思います。またこの曖昧さも良いのは、逆に即断、即決が勇み足となって失敗を招くこともあり、慎重さや曖昧さも決して間違いではありませんが、それも最初のうちだけであり、何時までも曖昧性では、結果的には対応が大きく出遅れることになり、時宜を逸することにもなりかねないものです。早期に対処すれば解決できたのに、長引けば長引くほど、解決不能に至ることも多く、問題解決を一層困難にさせていくのは明らかでしょう。例えば、結婚や契約の申し込み(プロポーズ)も、最初は慎重を期して曖昧なところもあっても良いのでしょうが、何時までも曖昧ではマイナスであるのは当然でしょう。

 曖昧性は、ある意味では決定的な対立を回避し、無益な衝突を防止することにも繋がっていくものであり、これは長所でもあることは確かです。しかしながら、多くの場合には、結論を早急に出していかなければならない時や、白黒を決着しなければならない時には明らかにマイナスであり、日本人の場合には全てを曖昧にする国民性であるからこそ、無責任性や無節操性を蔓延させて、一億総無責任体制の中で大いなる国民的欠点と化しつつあるものです。例外的に曖昧性を発揮するのは構わないのですが、無原則的に何時までも何処までも曖昧では逆効果であるものです。以前はたまたま閉鎖的な社会ということもあって、欠点が表面化せずに内部に隠匿、隠蔽化されてきたものですが、今やグローバル化時代の中で、難問山積の状況下では、曖昧に解決を先送りする弊害が顕著になりつつあるようです。

 この情緒曖昧さは、手本となるものや目指す対象が明確であるうちは、集団主義と相まって欠陥が露出してこないものですが、いざ目標や対象にまで到達すると、途端に、逆に新たな目標を見出せない状況の中で、高慢や驕慢、虚脱や虚栄の体質を引きずりながら迷走し始めるものと思います。先の集団主義は欧米も同じですが、日本の集団主義は情緒主義的であり、堅固な信念や思想で連帯しているものではない故に、わずかな刺激で容易に崩壊していくものでしょう。戦後の荒廃から高度経済成長を目標としていた時には何も問題ではなかったのですが、バブル崩壊とともに、今では迷走の極みに達して、解決不能の膠着状態に陥って救い難いものとなってきたようです。

 さて、この日本語の曖昧性は、他ならない賛否や優劣、勝敗、白黒、善悪、正否、諾否、適否、可否、是非などを曖昧にしてしまう日本人の国民性にも繋がっていくものでしょう。即ち、日本語特有の曖昧さ故に、「まあまあ・なあなあ主義」の談合・野合が横行し、契約観念の曖昧さ、責任感の曖昧さ、議論や討論で白黒の決着を付けない玉虫色の決着、喧嘩両成敗が蔓延し、横並び画一集団主義、呉越同舟の一億総馴れ合い集り合い凭れ合いの烏合の集団に成り下がっているものです。曖昧模糊の世界が、他方では、見解を異にする対立や議論、反抗、反発を一切排除し、ある意味では偏狭で排他的で頑固な精神性、即ち、無批判性、無責任性を生み出しているように思います。また曖昧情緒性は、対外的にも、日本人自身が外国に対しては全く受け身になって、批判も反発も出来ない堕落した腰抜け・腑抜け、間抜けの軟弱・脆弱・薄弱な民族性、国民性を生じているということでしょう。これらは、問題解決の先送り、事勿れ主義の無責任から、最後には大混乱の葛藤を生んでいくものです。これは平成二年以来のバブル経済崩壊後、同じような議論を繰り返し、一向に問題解決が見えない状況を見ても、また十年間で何と十人の総理大臣が替わるような足の引っ張り合いを演じた国民性、そして最近の卑屈で自虐的な外交姿勢を見ても、国家迷走の元凶となっていることが何となく解るというものでしょう。

 目下、政治課題になっている憲法改正にしても、第九条だけでも、厳密な憲法学者の間でも何と十数通りの解釈があり、更に一言一句の厳密さを伴えば、いろんな組み合わせにより、実に二百通り以上もの解釈があるようです。自衛隊が違憲か合憲かを巡っても、国論が分裂している有り様だし、国際紛争を解決するための軍隊とは言っても、一体、国際とは何か、紛争とは何か、軍隊とは何か、などと思考を巡らしていくには、あまりにも曖昧な日本語で曖昧な感覚に慣らされた曖昧な思考論理では、正確に解決できない欠陥を有しているものです。実にこの曖昧な言語感覚にこそ、拡張解釈や脱線解釈を平気で許容し包容する曖昧な国民性が根底に存在し、国家迷走の原点があると言えるでしょう。これはもはや、日本語の正しい使用では解決できない日本語の構造的欠陥、限界から来るものであり、それを曖昧無責任で駆使する国民性の変革こそ必須だとの問題に到達していかざるを得ないものです。幾ら崇高で神聖な法制度を構築し整備しようとも、解釈や運用において、二枚舌、換骨奪胎、曖昧模糊、勝手自由、拡張脱線、何でも有りのデタラメで無責任な解釈や実践を野放図に許していけば、一体法治国家としての看板はどうなるのでしょうか。
 
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和を尊び批判を許さず個性排除の集団主義

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 5月 7日(日)23時01分4秒
編集済
   日本人の国民性に関しては、実に多くの分析や評価が行われており、長所から短所に至るまで実に様々であります。あるものは皮相的なものでしかなかったり、一時代的なもの、一過性のものでしかなかったり、あるものは歴史を通じて何ら変わることのない根源的なものであったり、一体何が日本人の本質的な国民性と言えるのか、またその原因や背景に至っては、誰も明解に分析し解明できていないように思います。その中でも特に、辛辣に日本人の国民性の背景を分析したものとして、戦後出版された米国人ルース・ベネディクト女史の『菊と刀』、韓国人では、李御寧著の『「縮み志向」の日本人』、呉善花女史の『日本人を冒険する』、日本人が書いたものでは、土居健郎氏の『甘えの構造』、中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』、最近では中山治氏の『無節操な日本人』などがあるようです。

 この国民性を決定する要因には様々なものがありますが、恐らく、宗教観や言語、気候風土、食べ物、法制度などが関係すると思いますが、これらからもたらされる国民性は実に複雑に絡み合っており、一つの側面に対して、一つの因果関係や相関関係を画一的に決定付けることは不可能に思います。また物事には表裏があり、この国民性に関しても、時代環境によっては、長所が時には短所にもなり得、また逆もあり得るものであり、長短は誠に表裏一体であるように思います。

 それ故に、多くの有識者でも、適用する環境や時代背景により、また根源的と見るのか、皮相的なものと見るのかによっても、見解が大きく分かれていくように思います。当方は、特に日本人の場合には、世界と大きく異なる要因に日本語という特異な言語が関係しているように思います。即ち、本来の日本語に加えて、世界中から渡来したと思われる、複合多民族国家による多言語複合社会の形成が大きく影響を及ぼしてきたものと思います。勿論、その言語の背景には、海や山の幸に恵まれた豊かな自然環境や食べ物、四季の明確な気候風土などがあり、また国民性を規定する法制度も関係していることは明らかでしょう。法制度で言えば、先の『菊と刀』のベネディクト女史は、日本の「封建的階層社会」に原因を求めておりますが、この封建制度は世界中に共通のものであり、上意下達の人間関係は今でも軍隊では世界的に残存しているもので、何も日本独自のものではありませんし、国民性に関係あるとしても、これは単なる皮相的で一時的なものでしかないように思います。

 まずは日本古来の法制度を検証してみますと、聖徳太子が制定したとされる十七条憲法があり、その第一条には、誰もが知っているように、「和をもって貴(尊)しと為す」と書かれており、そこから日本人の調和主義、平和志向、集団主義などが指摘されております。しかし、この次に何が書かれてあるのかに対しては、あまり注意して知っている方は少ないように思いますが、「一に曰く、和をもって貴しと為し、忤うことなきを宗とせよ。・・・」とあり、実に逆(忤)らわないようにして和を保ってきたということです。

 日本語の形成過程を見ても、本来の日本語という言語特有の性質に加えて、この聖徳太子の十七条憲法の基本的精神により、無益徒労の対立や摩擦を極力回避して、それなりの国内の平和的統治を求めて、喧嘩両成敗をなして国民の調和を図ってきた政策的な要因が、実に日本語や国民心理に色濃く反映してきた面があると思います。例えば、人間関係を重視し上下のタテ社会を規範し、相手を気遣う敬語や謙譲の精神が、道徳、倫理や礼儀の美徳となって穏和で調和的で和の精神に育み、今日指摘されるように、集団主義、相互扶助などの国民性形成の源泉となってきたものでしょう。日本には大した革命事件も起きなかったのは、革命という破局に至る前に、対立や葛藤を未然に防止し回避する本能や智恵が、醸成されて来たものでしょう。

 然るに、この和を尊ぶあまり、逆らわないことを旨とする精神は、ある面では、出る杭を打つ、長いものに巻かれろ、沈黙は金、などという国民性を支配する格言を生み出し、議論や批判や反論、主張、個性を封じ込めて圧殺して沈黙を強制し、万一、対立することがあっても、白黒や善悪、勝敗を決することさえすることなく、喧嘩両成敗で決着する傾向も強かったように思います。歴史的には、良き面を形成してきたのも確かですが、逆に、表面的な忠勤や奉仕、謙譲の美徳とは裏腹に、その反動として、平気で寝返ったりする裏切りや密告の多い、無節操で変節的な心理や行動を形成してきた背景があったのではと思います。正に大和の国とは、争いや対立を友好的・調和的にも、また強制的・排他的にも回避させて来た「大いなる和」の国であったものでしょう。

 日本社会の場合には、普段は和気藹々とした和の精神を形成して、表面上は穏やかに見えますが、陰では、抑圧され封印された怨念や欲求不満が隠っているがために、いざとなれば組織や国家社会がバラバラになっていくように思います。この因果関係も実に、表の建前と裏の現実との相関関係があるように思います。この点は、激しい議論をやって対立しているように見えても、いざとなれば一つにまとまる多民族社会の米国とは正反対のようです。むしろ、日本も、世界中からやってきた複合多民族社会であるという真実を明らかにした上で、自由に議論し批判する闊達な社会であれば、普段はバラバラでも、いざとなれば一つにまとまって、真の和の社会が生まれるものでしょう。しかし、あまりにも単一民族社会であることを強調して、抑圧制御が強すぎたのか、日本では全く逆に至ることが多いように思います。

 この日本人の国民性は根本的に歴史を通じて、恐らく、単一民族を和合した大和の国の建国以来、何ら変化していないように思います。しかも日本人の国民性が、実に日本人社会や心理を誘導した政策と絡んで、言語にも影響を及ぼして形成されてきたことには、多くの国民は案外気付いていないようです。勿論、こうした政策にも長所も欠陥もあり、これまではかなり効果的であったもので、何も全てが駄目であったものではありませんが、現在ではむしろ欠陥が大きく浮上して、長所が短所に転換してきたということです。

 日本人の国民性を様々な角度や観点から検討していきますが、これらは単純に単一の原因や背景に集約できるものではなく、実に相互に関連を有し、密接に複雑に絡み合っているものです。それでも、最大の根底にある要因は、逆らわないことで批判を封じ込めて、和を尊ぶことを強要し強調してきたところにあろうかと思います。表題の「和を尊び批判を許さず個性排除の集団主義」も、見方を変えれば、喧嘩両成敗や、出る杭を打つとか、沈黙は金とか、長いものに巻かれろ、などの抑圧や諦観を生みやすく、また嫉妬や妬みなどの葛藤を生じやすく、更には曖昧で情緒的な感性や判断、無責任で狡猾な欠陥をもたらすなど、実に相互に共通しているものであろうかと思います。また、逆に、出る杭を打つや長いものに巻かれろの抑圧や諦観に反発・反抗して、大胆不敵な挑戦意欲や正義感を発揮させてきた面もあり、更には、集団の掟に従順で素直に従っておれば、実に寛大で相互扶助の精神が発揮されてきたのも事実でしょう。それらの精神や心理が日本語の性質と合わせて、日本語自体の形成にも大きく影響を及ぼしてきたものと思います。

 さて、個人主義の欧米人は、個室を与えられると集中して仕事の能率が上がるが、日本人の場合は、個室を与えられると、誰も見ていないことで勝手な内職を始めると言われます。これからすると、日本人の集団主義とは、周囲から相互に監視されているからこそ、横並び思考で、一生懸命に安心して頑張ることが出来るというもので、これは換言すれば、個、個性、個人が成熟し確立していないとも言えるでしょう。正に、日本人は集団では強いが、集団から離れると、バラバラになる国民性であるとの証明にもなるでしょう。
 

こころを強くする

 投稿者:あだち  投稿日:2006年 4月 9日(日)20時57分9秒
    聖 名 讃 美

   「勝手書きこみ」をお許しください。

   今週の「テーマ」―――――――――

    ■□■ 「オカネ」とは何だろう □■□

   「いのち」以上に大切なものが「オカネ」
   だとは、衆目の一致するところです。
    したがって、「お金」のために「自らを
   殺し」「相手をも殺す」状況が多発してい
   ます。
    そこでカネの「実態」をゆっくりと、考
   えてみませんか。

   ■□ http://kokoronet.org/message ■□

     (もし不適切ならば削除して下さい)
 

創造立国ならば

 投稿者:月夜裏 野々香  投稿日:2006年 2月 6日(月)06時30分35秒
  議員年金の廃止は、不正腐敗の増大に繋がるので危険。
逆に年金を増やして、議員を半分に削減すべきだ。
その方が国庫から引かれるお金も少なくてすむ。
議員を聖人か何かと思っているマスコミにも。
偽善ぶって議員年金廃止などという
功名心だけのバカ議員の言い分を真に受けるほうもおかしなものだ。
金欲しさに財界や他の国から金を貰って国益を売り渡すに決まっている。
それとも議員を信じているのだろうか。
議員を半分に削減して、年金を倍にして余生を飼い殺しにすべきだ。

http://homepage2.nifty.com/tsukiyori/homepage.html

 
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加害者の創価教の子息たち

 投稿者:仕置人  投稿日:2006年 1月25日(水)21時43分18秒
  創価学会の複数の子息が犯行グループの中に含まれていますね。「仏教」や「平和」は単なる表看板であって、その内実は、彼らが創価学会の社会不正や事件を指摘する人たちや脱会者、反対者に対する「憎悪」を洗脳、また洗脳で植えつけるカルト集団です。幼児や小学生にもその「憎悪」を心深く植えつけるわけです。プロパガンダを並べ立てて、その実は憎悪を駆り立てている。聖教新聞やその他の創価学会の機関紙を見ればその一端がわかります。その狂気の体質は、最近のおぞましい殺人事件の多くが創価学会員によるものであることからも証明されています。

たとえば、人の命を救うべく医師であっても、カルトに入れば洗脳されてサリンをまく狂気の悪魔に変わってしまう。これがカルトの恐ろしさです。わが国の社会がもう少し賢明になって、カルトを育てない、もう許さない輪、というを広げて行く努力が、こうした悲惨な事件の予防にも通じて行くことになると、わたしは痛感しています。
 
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中国へ戦争責任賠償請求!

 投稿者:ここで一番  投稿日:2005年10月23日(日)09時48分53秒
  『 中国への戦争責任賠償請求へ日本! 』

過去の歴史をひもどいてみよう。
それは1度目の元(中国)の『 侵略 』元寇、蒙古襲来:1274年大陸側からの『 侵略 』戦争から始まった・・・・・。

『 モンゴル族・漢族・女真族・高麗族など3万 』を乗せた元軍の船が『 朝鮮の馬山 』を出航。
10月5日に『 対馬 』、10月14日に『 壱岐 』を勝手に襲撃した。『新元史(中国)』によればだ!
『 大量の民衆を殺戮し、生き残った女性の手の平に穴を開け、革紐を通して船壁に吊るし強姦、虐殺した 』とある。

しかもだ捕虜にした『 子供女約200人を、奴隷として高麗王と王妃に献上した 』という記録が高麗側に残っているのだ!
これこそ我が日本民族とは違う大陸側の植民地主義!『 残虐を極める極悪非道の悪行だ! 』許すことなぞできん!

さらにだ2度目の元(中国)の『 侵略 』元寇、蒙古襲来では!
1275年クビライは再び我が国に使節を送るが、北条時宗が使者全員を斬首に処す!当然だが全くやり足らん!

このスパイ使節は、我が国の国情を詳細に記録・偵察するなどスパイの性質を強く帯びていた記録もある。

1279年クビライは再々度、総計5名の使節を送るが、我が国は再び使者全員を斬首に処す。これも当然だ。
再度の使者処刑にクビライは激怒。これこそ本末転倒だが、我が国への再攻撃をクビライは計画する。

で1281年、
『 高麗人を主力の東路軍4万、旧南宋人を主力の江南軍10万、計14万の元軍 』の船が、我が国に向けて出航。

既に、我が国は防衛体制を整えており、博多沿岸の約20kmにも及ぶ防塁は高さ3m、幅2m以上とされていた。
そしていち早く到着した元の東路軍は防塁のない志賀島に上陸するが、我が日本軍の切り込みを受ける。

1度目の文永の役戦争により元軍の戦法への逆戦法を整えていた我が日本軍は優勢に戦い、
元軍を海上に追い出し、さらに積極的な『 ゲリラ戦術 』により元軍を恐れさせた。

元軍は遅れてきた江南軍と合流したが、ここで暴風雨が襲来。元の軍船は海に浮いているのが精一杯だった。
これを攻撃の好機と見て武士たちは勇躍して元軍に襲いかかりここに『 元軍を完全に殲滅した 』のである!

後、元軍が本国に帰還できた兵士の数は、日本側が解放した捕虜を含めて『 全体の1、2割 』だったと言う(笑
この戦争で元軍の海軍戦力の2/3以上が失われ残った軍船もほとんどが破損したとされる。

我が日本軍は『 モンゴル人、漢人、高麗人をすべて処刑! 』したが以前より交流のあった
『 南宋人だけは捕虜として助命した 』と言う。博多の唐人町はこの南宋人の街だとされている。

中国人よこの偉大な恩を知れ!判るかどアホのモンゴル人!漢人!高麗人!女真人!めが。

最近の調査で、博多湾の海の底で見つかった元の軍船から農業用の鋤や鍬などが見つかった。
これは元軍が戦う前に勝利を確信し入植する『 侵略 』が目的だとされる重要な証拠である。おバカである。

通説では14万の過剰な人数もそのためとされる。我が日本軍は10万人を遥かに超えており元よりも強大であった。
元軍の戦力情報は事前にスパイや交易とともに、我が国に伝わっていたとされている。我が国として当然だが。


玄界灘に面した生の松原(福岡市西区)は2度目の弘安の役の激戦地であり『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。
再襲来に備えた玄界灘沿岸には石造の防塁が築かれ現在も遺構が残る。

元の再度の襲来に備えて、玄界灘沿岸には石造による防塁が築かれ、現在も遺構が残る。
史跡元寇防塁博多区筥松の本所周辺は埋め立てられ、現在、本碑は海岸線から離れたところに位置する。


ところで、狂産中国、韓国、北朝鮮が数十年も過去の戦争をいまだにぐたぐた言うならばだ!
我が国への明らかな『 侵略 』が目的だった中国元の侵略蒙古襲来の『 超巨額となる戦争責任賠償 』を先ずやれ!

我が国が防衛し勝利をした蒙古襲来(元寇:元が侵略するの意)では、我が国は膨大な損害を被った!
によってモンゴル・中国・北朝鮮・韓国に対して『 懲罰的戦争責任賠償 』を支払わせる!

その額は現在の通貨に換算して『 数十兆円 』に達し!当時からの利息を含め『 数千兆円 』となる!
これを即刻、我が国政府に対し、モンゴル、中国、北朝鮮、韓国が分担し支払うことだ!

我が国としてはこの超巨額な賠償金の清算が済めば、それ以後の歴史問題を考えてもいいだろう!
とにかく、我が国への元の侵略に対し『 超巨額な戦争責任賠償 』が先だぜ!アホの狂産中国人よ!
 

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